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年末の買い物

なんとか今年も生き抜けそうである。この歳になれば、もうそんなに夢もないし、無事にいければこれ以上のことはない。師走と言うけれど、これをやっておきたいだの、あれを食べたいだのは思い浮かばない。

まあそうは言っても寒いのはかなわないし、腹が減るのもつらい。私は衣類の物持ちがよいらしく、スボンにしても擦り切れるまではくので、一度に使い物にならなくなることがある。今回もそうで、はけるものが急になくなってしまった。

寒さ厳しい折、厚手のスボンのみならず暖かそうなパジャマなども欲しい。

というわけで、先週は何軒か店を回ってきたが思うようなものがなかった。靴下だけは厚手の綿製を手に入れていた。

田舎では車がないと遠出もできないしネット通販でもやるしかないかと考えていたところ、幸い車の便があり、大和の衣類を中心にした大型店へ行くことができた。

それほど高価なものは無理としても、厚手で手頃な値段のスボンを二本手に入れた。一本はまさに厚い生地、もう一本は柔らかそうな生地で裏起毛になっている。

数日前にパジャマや下着は八幡で手に入れており、衣類に関しては、正月のみならず今冬を乗り切る準備ができたように思う。

事のついでというのも変だが、年末になると食料品も上等なものが多くなり、値も張るので、少しずつ手に入れようとしたが中々難しい。懐事情が厳しいのだ。

子供がいた頃は、大晦日にはそれなりに御馳走も用意していたし、おせち料理もしっかり揃っていた。

ただ年齢のせいか、おせちの中で好んで食べていた物も今はそれほど欲しい、食べたいということもなくなってきた。

それでもまあ我が家では、私がごまめ(田作り)を、相方が伊達巻を好む。これぐらいなら、押し詰まってからでも手に入れられるということでパス。

正月用として目だったものでは、餅と小豆の餡子を手に入れた。正月だから特別というわけでもないが、なにやかやで餅が手に入るこの時期、ぜんざいが楽しみである。餅の数からすれば、少なくとも二三回はいけそうである。

今年は大学生になった孫も大晦日から我が家へ合流するそうで、食うものだけでも大変だろう。彼は普通に酒も飲むようになっているので、近頃とんと飲まなくなった私がお相手するのはしんどそうだ。

また正月三が日か四日辺りで、知り合いの娘さんたちと喫茶店へ行くことになっている。東京やら名古屋などに出ている人たちで、帰郷中に会ってくれると云う。それぞれ立派に一人前になっているようなので楽しみにしている。

少しばかり賑やかな正月になりそうだ。生きていればこそだね。                                               髭じいさん

泣く

若い時は殆んど泣くことはなかった。父親は早く亡くなっており、記憶に残っていない。小学校の四年生ぐらいだったか、近所の人が彼の亡くなったことを知らせてくれたことは何故か脳裏に残っている。その時に泣いたかどうか記憶にない。それから三十年ほど経って母親が亡くなった時にも泣かなかったと思う。

その後、次々に兄姉が亡くなった時にも、親しい友人が亡くなった時でも感情が高じて泣き出すということはなかった。

こうやって振り返ってみると自分が、感性が薄くて冷たい人間だったのかなと考えてしまう。悲しくない訳ではない。身近な人を失うときの喪失感は、他のもので補うことはできない。

この歳になると、数えきれないほどの葬式にかかわってきた。自分の身内が亡くなった時には親族やらとして、近所の葬式や友人の身内が亡くなった時にはお手伝いとして、お通夜から葬式まで付き合うことになる。

当然ながら葬式は楽しくない。手伝うと言っても、大層な肉体労働をするわけでもないのに疲れてしまう。親族が涙をハンカチで拭うのを見るだけでどっと疲れるような気がする。私にはジンクスがあって、冬場の葬式では風邪をひいてしまうのだ。これからすれば、私にも感情の起伏があるにはあるらしい。

泣く原因は悲しみや喜びの他にも、感動したり、悔しかったりする時など色々ある。

『説文』によると「泣」(十一篇上二302)は「無聲出涕者曰泣」とあって、「声を出さないで涕を流すのを泣くという」と定義している。そうだったのか。

「涕」は「なみだ」と名詞で使われることが多いけれども、また「泣」と同じように動詞で使われることがあったらしい。

「涙」は同じく「なみだ」で、「途切れずに流れるなみだ」という意味になっている。『説文』には収録されない。

また「洟(テイ)」は「鼻水」のことで、悲しい時などに流れる「涕」と並んで「洟涕」と呼ばれることもあるし、風邪を引いた時に出る鼻液をも表せる。

つまり私は、これまで人が亡くなった時に泣いたことがないから、「涙」はおろか「涕」を流したことがなく、悲しくて「洟」を垂らしたこともないわけだ。

ところが老いた今となってはすっかり様変わりした。人のちょっとした話を聞いても、シリアスなドラマを見ても、感極まって涕が流れてしまう。涙腺が緩くなって、うかうかすると涙となる有様だ。

もともと感情の起伏が小さかったと考えていたのは、実は強烈な意志で自分を抑えていただけだったのか、それとも人生のゴールに近づくにつれ浮世にセンチメンタルになっているだけなのか。情けない話しなのかな。                                             髭じいさん

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