ずれ
私のような細民がこのようなテーマで町のことを書くのは分を過ぎているかもしれない。私の人生そのものが、つぎはぎを当てながら、小細工を積み重ねるほかなかった。だからと言うわけでもあるまいが、その小ささを意識せざるを得ないような物や事がどうしても見えてしまう。嫌われ者になる覚悟を決めた。
私の住む郡上市八幡町の町中では、歩道というような贅沢な空間は取れず、側溝を覆うコンクリートブロックやグレーチングの上を歩くことが多い。その上、等間隔に電柱があり歩行の邪魔をしている。また、人通りが多い新町あたりでは車が駐停車していることが多く誠に歩きにくい。
このような状況であるも拘らず、道路の一部に石畳もどきを敷き 更に両脇に石を並べている。凸凹になって歩きにくいだけでなく、自転車でも中央に寄って走るほかないので対向車が迫ってくるとかなり危険である。まして、車椅子のことなどは念頭にないのだろう。
なぜこのように不便なものを設置したのか、私は詳しい経緯を知らない。アスファルトでは観光の目玉となる通りにふさわしくないと感じたのだろうか。石を敷けば、いくらかでも風情が出てくると考えたのかもしれない。
税金を使いやったことだから、ちゃんと手順を踏んでいるだろうし、背後には町を良くしようという熱意もあったに違いない。が、今となっては負の遺産にしか見えない。どんなものだろう。
市の財政がひっ迫している折りだから、今すぐ電柱をなくして電線を共同溝に入れろとか、自転車や車いすが通りやすくなるように脇の石を撤去しろとは言わないけれども、中長期では必ずやってほしい政策である。
長年にわたって南町は島谷用水の水漏れに苦しんできた。水量を保つためにも、三面をコンクリートにしたのはやむを得ない解決法であったと言えよう。私は今の姿が長い歴史の一つの集約であると評価している。
ところが、用水のあちこちに大きな石を設置して流れを緩やかにし、床面へ石を敷き、そして魚を放っている。観光の名所ということで、風情を増す一環なのかもしれない。
島谷用水は、工業用や農業用としての役割を殆ど終えたとしても、防火や生活用水として今でも重要な役割を果たしている。無念であっても、簡単に水量は変えられない。これを妨げない範囲で工夫するならば、納得できないわけではないし、地元の熱意を感じることもできる。
近ごろ小徑に幾つか小さな街路灯が設置されたり、井川で山椒魚を飼ったりしている。ここまで来るとどうだろう。私は、飾らずに、あるがままの姿を見せるのが本筋だと思う。むしろ、これらはこの町の誇り高い文化とはややずれている気がする。