愛宕の話
テーマがまことに大きくなってしまったが、信仰そのものの解析ではない。
先日、友人から電話があり、公園に隣接する愛宕神社の祭りで使う幟に「𡧣」と記され、「宕」の宀冠の下が「石」ではなく「右」になっている点を問い合わせてきた。
何でも幟を見た学生が試験にその字形で書いたところ間違いとされ、ショックを受けたとのこと。「本当のところはどうなんだ」という内容だった。これはその答えの一部である。
私は「𡧣」の字についてまったく気づかなかった。後日写真を見せてもらうと、力強い筆遣いで自信ありげに「右」になっている。周りの人に有無を言わせない筆致だ。
まず頭の中で思い浮かんだのは「恢」の旁の部分である。音からすれば「灰」と関連しそうだ。これから「右」につくるのも案外根拠があるかもしれない。今回はたくまずに、調べた順に書いていく。
1 『説文』『玉篇』などでは、「石(セキ)」と「右(ユウ)」では字形が似ているだけで、音義ともに異なる。「愛-宕」が「アタゴ」と読まれるのは想像以上に奥深いテーマなのだが、「石」を「右」につくっては音が不適切である。
2 「𡧣」そのものはユニコードや『文字鏡』にフォントがあるものの、音義とも不詳。
3 『康煕字典』には収録されない。
4 『大漢和』には記載され、『捜真玉鏡(ソウシンギョクキョウ)』という辞書をひいて「𡧣 義不詳 古海切」とし、音(カイ)を記録するのみ。
以上から、確かに「右」につくる字は存在するが、『玉篇』に収録されないので、少なくとも南北朝以後の字である。
南北朝あたりに仏教が広まり、仏典を翻訳や解説するのに怪しげな字が相当つくられた。この字もまた恐らく俗字として生まれ、唐代まで生き残り、宋代に編纂された『五音篇海(ヘンカイ)』が『玉鏡』に載せていたものをからくも拾ったというあたりか。
さて話を戻そう。
愛宕神社でいつ頃からこの字を使っていたのか確かめられるなら、幟の作者がなぜこの字を選んだのか推測できる。なにせ江戸時代には優秀な漢学者の多い土地柄である。ただ『玉鏡』は既に宋代には存在しなかったし、『篇海』にしても簡単に手に入ったとは思えない。また手に入っていたとしても、字義不詳である。
以上から、僧侶が業者にこの字を教えたと考えられないか。この神社を守る別当がいたことが分かっている。彼らの解説書には独特の文字が多い。
近ごろ漢字の基準が甘くなる傾向があるとしても、この場合はいけない。例え一時認められたとしても、音からして俗である。学校の先生は正しい判断をされたと思う。
ただ既に史料として大切なので、幟をこのままいじらずに使ってほしい。