道草を食う
明けましておめでとうございます。幾らへそ曲がりでも、正月三が日を当たり前の三日に過ぎないなどと言うつもりはない。ここのところ何事もなく一日一日が過ぎ、心身ともに前向きでいられる。まして節目となるわけだから、けっこう目出度いような気がしている。
旧年中を振り返ってみても、幸い病気や怪我をしなかったし、それほど重大なことは起こらなかった。心配事がないわけではないが、それなりに体も動くので貧乏暇なしをやっていられる。こんな風にすんなりゴールできればこれ以上のことはない。
道草は、目的の場所へたどり着く途中で他のことにかかずらって時間を費やしてしまうこと。語源は、馬が道端の草を食っていて進行が遅れることを言うらしい。
もうすっかり内容は忘れてしまったが、漱石に「道草」という小説があった。彼ならば真剣に人生と取り組んでいるだろうから、道草など痛恨の極みかもしれない。
私はことのほか道草が好きである。譬喩としても、実際の旅や散歩しにしてもそうである。さすがに前者はここで軽く纏めるというわけにもいかないので、いずれ機会があればということで。
ちょっと散歩に出ても、あちこち気になることがあってスムーズにはいかない。雪の中を歩くなら幾分か足早になるとしても、体が温まってくるにつれスピードがのろくなる。
目的地はあるにはあるが、大した用があるわけもなく、気分が変わればあって無しという具合だ。
歩いている最中は、妄想に取りつかれる時もあるし、五感をすっかり解放して歩くこともある。今なら南向きに雪はないが、北向きや遠くの山をみれば寒々とした雪景色。川面も凍らんばかりの冷たさが見て取れる。
さて本日のテーマは道草を食う馬ではなく、人の話である。一回り上の人たちのことで、彼らの記憶をたよりにしている。腹をすかせた子供が、学校の行きかえりなどに、路傍にあるスイコメやイタドリなどの草を摘んでは食っていたという。この辺りでスイコメとイタドリは別物である。暖かくなるとツナビ(桑の実)で口を紫色にしながら腹いっぱいにしたそうな。数人から聞いているので間違いあるまい。
敗戦後しばらくして生まれ、底辺に近い貧困を経験しているというのに、私なら幾ら道草しても道中で草を食うことは思いつかない。瀬戸内は暖かい。少年期に路傍で誰が育てているのか分からないようなイチヂクやビワを取って食べた記憶は残っているが、咎められたことはない。
これには地域の差もあろうし、ちょっとした世代差もありそうだ。私の場合は、道草を食わずに道草をくっていたということか。