郡衙
有難いことに、このコラムにも幾らかは読者がいるらしい。この間、「郡上郡衙の位置はどこか」というあからさまな質問があった。長い年月をかけて取り組んできても皆目史料がないわけで、ピンポイントは厄介である。
それでもまあ順々に考えてきた経緯があるので、私なりに見当はつけてきた。思い起こせば、
1 郡名になっているので、郡上郷にあった可能性が高い。
2 上之保、中之保、下之保は、異論もあるが、武儀郡における「保」の用例から郡衙設置に遡ると思われる。例え遡れないとしても、荘園時代初期には多用されていた。
郡衙はその名称から中之保に近かっただろう。中之保は郡の中心部に近かった痕跡を示している。
そして四郷のうち郡上郷が唯一保のつく地名でないことが、中心地であったことを示唆する。またこの地区には、中野、中坪など「中」の地名が集まっている。
3 古くから武儀へは下川筋、西和良、和良の中保、下保へは乙姫川を遡る道など、また小駄良筋を介して上保へ交通路が整備されていたようである。
4 旧河川域を除くと、地形より、舛形から東の河岸段丘が有力だろう。
というような一連の論考だった。舛形から愛宕までおおよその見当がついたとしても、まだ結構広い。
何せ史料が足りないので慎重にならざるを得ないが、何らかのたたき台にしておきたい。そこで、この地区の旧地名をあたっている。
日吉神社は祭神が大山咋神で、安久田から勧請したと伝えている。寬文年間の地図によれば、若宮山王権現と記されている。現在の字名が若宮だから符合している。ところが伝承によると、「往古、この地は原野にして字大美屋と称し、西に向いて一小祠あり。開基古きにて其初めを知らず」となっている。若宮ではなく、「大美屋」と伝えている。
また同地図によると、参道に大門があったようで、「ミヤ大門」という区画がある。遠藤氏の寄進があったにしても、大門があった痕跡は見当たらないから、安久田から勧請される以前に大門があったのではないか。
数回前に、「名広(なびろ)」が戦国時代に知られた地名であり、「名が広がる」「名を広げる」辺りでないかと書いた。
若宮以前は「大美屋」であったとすると、「大宮」と解せようから、この近辺に郡衙があったと考えられないか。この大宮に大門があったとすれば、郡衙がかすかに見えてくる。確信とまではいかないとしても、材料を増やしていけばそれなりの仮説に育ちそうな気がする。