続カハラ丁

一月ほど前(2018年11月12日)に書いた「カハラ丁」の続編である。現状からすれば、河原のない町なのに「川原町」となっている点が不審だと書いた。
今回は、基本となる「寬文年間當八幡繪圖面」に加え、稲葉家史料の「八幡城合戦図写」という絵図面を加えて、戦国時代末期に焦点を当てて推察してみたい。
「寬文年間當八幡繪圖面」における「カハラ丁」は名広川の右岸にある小さな集落として記されている。
慈恩寺山の崩壊による大規模な土砂崩れは前回にも書いた。当時の写真や慈恩寺住職の証言によれば、川原町にはそれほど影響がなかったらしい。名広川の氾濫も、大部分は川原町より低い立町の方から橋本町や日吉町へ流れたようで、これまた川原町にはそれほど洪水の影響はなかったようである。
この未曽有の大災害でも、川原町の東西が大災害であったにもかかわらず、左程影響を受けていないのであるから一層不思議な気がしてくる。
そこでいろいろ史料を物色しているうちに「八幡城合戦図写」へ行きついた。どうやら実際に見聞して描いた図面ではなさそうなので、全幅の信頼をおくわけにはいかないけれども、赤谷村は大きく「山フモト」「赤谷町」「カハラ」に分かれるようだ。
「山フモト」は地名としては不審で、図面ではこれより山側に「井山」があるので、井山が今よりもっと広範囲だったと考える他ない。となると「上井山」が「山フモト」より山側の残存地名である可能性もあるが、それにしても広すぎる。何か誤解があるかもしれない。
戦国時代末期に「赤谷町」があったというのも明らかではないが、赤谷村集落の中心地が和良筋への通りに沿って連なっていたと読めるかもしれない。目印になるような神社や祠はまったく見当たらない。
「カハラ」もまた随分広い範囲に亘っており、今の常磐町、朝日町がすっぽり入るぐらいになっている。この規模になると、吉田川本流の「カハラ」だったと推定できよう。大規模な護岸が施されている現在では想像するのも難しいが、いまより流域が広かったと考えてよいかもしれない。江戸時代の後半あたりでは畑地となり、幕末から明治にかけて町家が集積するようになったのだろうか。
この図面からすると、恐らく「川原町」は「赤谷町」の続きかそれより山側になるので、この地図における「カハラ」には含まれない可能性が高い。となると、これより更に遡って、カハラがもっと広かった時代の残存地名とするか、カハラに関連する渡しや漁師などの職に就いた者たちの遺称地と考える人も出てきそうである。私は、吉田川のカハラの残存地名とするか、或いは「カハラ(瓦)」とするか迷っている。やはり、今しばらく両説を温めておきたい気分である。

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