コロナ世代

岐阜県下の小中高は五月中全て休校になるそうだ。この世代を抱える親達はたいへんな思いをしている人が多かろう。国内の大学については殆ど情報を知らないが、漏れ聞く話では、県内のみならず中部圏の大学でも休校のところが多いらしい。
親元を離れアパートなどを借りて暮らす学生は家賃だけでなく、学費も重なって重荷になっているようだ。親元の経済が安定していれば持ちこたえることができるとしても、このご時世そううまくいくとは限らない。ましてアルバイト先が閉まっていたりすると死活問題である。
この状況が長引けば、大学を辞めなければならない人も相当数いると云う。すでに八方ふさがりで追い詰められている若者もいるようなので、断腸の思いだ。
彼らにかける気の利いた言葉とてないが、パンの耳を齧ってでも持ちこたえて欲しい。只々生きてもらいたい一念である。
時期まで明示できないが、政府も困窮する学生を支える方向へ向かっているようだ。田舎の爺さん一人ながら、なるだけ厚い救済になるよう声を上げ続けたいと思う。
さて、先月末から地元の高校ではネット授業が始まっている。まだソフトがうまく機能していないし、単一の回線なので、一コマ20分でやっているらしい。
これでは基本のおさらいが中心にならざるを得ない。慣れない様式で時間が足りないなど、手かせ足かせがある中で難問に取り組むのは確かに難しかろう。
それでも新学年のカリキュラムに取り組まざるをえないので、相当なスピードでやっていると云う。
先生方のご努力は察して余りあるものの、短い時間で内容を充実させるのは容易ではあるまい。当然ながら宿題が多くなる。
小さい時から、教師など大人たちの助力を当然と考えてきた子供達は戸惑うだろう。ちょっとスマホを操作すれば、ゲームのサイトにつながる。どうせ分からないのは自分一人ではない。学校が始まればどうにかなるだろうというわけだ。ここで手を抜いてしまう子が出てくるのは残念である。
この難局をチャンスに変えることもできる。学問は本来自分から進んで学ぶものである。自分をじっくり振り返り、どんな人になりたいのか、どのように生きていきたいのか熟考することを勧めたい。
部活を含め、時間に余裕が持てている意味がある。分からない問題があってもしぶとく考え続ける。熟慮することは決して無駄にならない。知識を詰め込むやり方から抜け出し、自ら教科書を繰り返し読んで試行錯誤できる。
ゆとり教育の是非に結論が出たわけではないが、これにコロナ休校が加わる。後の時代、彼らがじっくり物事を考える世代として位置づけられるよう期待している。

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