血のイメージ

達成したことなど殆んど皆無だから平常運転だけれども、この歳になるとやっぱりやり残したことの多さに愕然とする。意地を張っても張らなくてもさほど変わらないので気楽にやることにする。ここのところ何故か「血」のイメージが頭から離れない。吐き出してしまうことにする。

昔、猪の鍋を食べている時だったか、獣臭さに閉口したことがある。近頃は肉を食べても魚を食べてもまず生臭いということはない。肉の業者や漁師、料理人がちゃんと血抜きをやってくれているからだろう。

「血」という字は、皿に乗っている「丶」がぽたりと落ちる血のしずくだと思っていた。ところが『説文』では「血 祭所薦牲血也 从皿 一象血形」(五篇上291)となっている。「丶」ではなく「一」と書かれており、「一」と「皿」の合わさった字と解釋されている。漢代では「一」が血の象形と解されていたらしいので、皿に結構たくさん血が入っていたわけだ。この場合の血は祭の際に犠牲となる肉から出たものとされる。今思えば血なまぐさい印象を持つとしても、神への捧げ物からなので清らかで神聖なものだと感じていたのだろうか。祭が終わり、これを何らかの形で食したとすれば獣臭かったのではあるまいか。

本邦においても、牛を犠牲にする信仰があったらしい。私は、郡上に残っている「牛首」と言う地名より、越前からのルートで入ってきたと考えている。あれやこれやからして、雨乞いに牛を屠って神に捧げたのではあるまいか。これにしても犠牲にした牛首から垂れる血が脳裏に浮かび、血なまぐさいイメージである。かくの如く古代にあっては、本邦においても犠牲を奉げた形跡があるものの、史料上では血を忌むべきものと考えられていたようだ。地名であれば「血」を嫌って好字の「汗」にする例があるし、また「血取り場」が「千鳥」「千虎」や「千葉」に言い換えられたりする。

人の血についてはどうなのだろう。古く殷代まで遡れば人をも犠牲として神にささげられたこともあるようだが、さすがに後漢代までくるとそのようなものとしてはまず見当たらない。人の血は清いものなのだろうか、それとも穢れたものだろうか。『釋名』というやはり後漢代の辞書をみると「血 濊也 出於肉」となっている。「濊」はいくつか意味が考えられるにしても、ここでは「穢れ」と読むこともできよう。「出於肉」から、この血が獣から出ていることは間違いあるまいが、また人の血を含むのではあるまいか。『古事記』では産屋を別棟にするなどからすれば、本邦においても、やはり人の血が穢れと認識されていたように思える。                                              髭じいさん

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