カッコいい

「恰好いい」「格好いい」「カッコいい」など書き方は様々で、少しずつ意味が違っているように思われる。また、近頃若い女性を中心に同じ意味で「尊い」という言葉も使われるそうだ。私の年代だと「恰好(かっこう)がいい」「格好(かっこう)がいい」などがぴったりするが、何気に「カッコいい」も使っているかもしれない。

この間ちょっとばかりテレビを見ていると、ある物理学者が進行役となり、海洋生物学者、ヨーロッパ中世の美術史だかの研究者、材料工学の学者三人をゲストに招いて、「カッコいい」についてディベートをしていた。以下はあくまで私の理解であって、多くの人を代表しているなどと思い上がっているわけではない。

専門家としてそれぞれの分野から見たカッコよさを述べたあと、互いに尋ね合ってテーマを深めようとする。海洋生物学者は環境にもっとも適応した者が生き残ったその姿や運動に必然性があるようなことを、芸術史研究者はロマネスク様式で当時の普通から抜け出ているものがある点を、材料工学の学者はアルミニュームが軽いだけでなく条件を加えると強くなる点をそれぞれカッコいいと言っていた。さすがに一線級の人達なのでそれぞれ興味深い意見だが、初めに語の定義がなされていなかったので、どれも腑に落ちなかった。

実感を持つために振り返ってみると、なぜか自分の「カッコ悪さ」が頭に浮かんだ。

  • 娘に背中が曲っていると指摘された時にドキッとした。一瞬にして自分が老いぼれてしまったこと、小さく丸まって今の自分に安住し、気迫や向上心といったようものを失った姿を見透かされたようで気まずかった。
  • 私は貧しい。車はおろか携帯やスマホを持たないし、色褪せた綿パンやシャツを好んで着る。草履といえば、友人に「便所スリッパ」と呼ばれるようなものを長年履いている。たまに、金を気にしないで生きることに憧れることがある。
  • 仕事にしてもライフワークとしている作業でも中途半端である。近頃では半端であることにすら喜びを感じてしまう体たらく。

数え上げればきりがないのでここら辺りでやめておくが、これらは私の理想が高いからではなく、ただただ不甲斐ない生き方に起因している。学生時代、金がなくて床屋へ行けなかった。こちらへ来てからはたまにカットだけしてもらっていた。当時無精ひげを生やし防寒用にしていたことからすれば、恰好を気にしたためでなかった気がする。してみると私は見栄えを第一に考えてこなかったようだし、他者に対し見栄を張ることもなかったように思う。

自分ではカッコいいと思っても、人からカッコ悪いと見做されることがあるし、その逆もある。カッコよさには姿や在りようを評価する定番の基準のみならず、更に洗練されれば格好よくなり、それぞれの価値観に合えば「尊い」ことになる。                                               髭じいさん

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