蜃気楼

私は「逃げ水」という言葉を全く知らなかった。夏場の道路を横切って水が流れているように見える現象で、それ自体は知っていたが、それを逃げ水と呼ぶことを知らなかった。目標にしていたことが近付いて見ると消えてしまい、又前方に現れるということからすればこちらの方がよいかも知れない。週初から「蜃気楼」というテーマを決めていたので迷ってしまう。

様々なところで躓いてきたので冷静に振り返ることを苦手にしてきた。それぞれに思い入れがあるからだ。ただこの歳になるとそうも言っておれない。

誰しも多かれ少なかれ何かを求め、実現しようとする。ここで賢明な者と愚か者との差が出てくる。私の青年時代なら、ドン・キホーテのごとく無謀にも戦いを挑んで、殆んどが肩透かしにあった。彼には槍だかの武器があったけれども、私には全く見当たらず、徒手空拳で向かっていかねばならない。闘う意思はあっても、どうやればよいのか分からなかった。

彼には巨大であっても風車という相手があった。自由を求めると言っても、力づくの権力やら作り上げられた権威などなら戦いやすい。私の場合はただ人の頭に根付いた偏見やら何かに囚われてしまう性向などという訳の分からないものであった。人の意識というものは、時が満たねばどうやっても変わりはしない。それより何よりまず自分が変わらねばならない。

壮年時代ともなれば、いやでも無力な自分に気づいてしまう。そこはそれ元気のよい頃なので、蟷螂の斧のごとく無暗に戦って疲れていた。まあその辺りから気を取り直し、生きている内に出来ることをやっておこうという気分になる。一番に思いついたのは自分の愚かさを何とかしたいというもので、これなら少しは前進する知れない。とは言え、数えきれないほどの愚かな行為を思い出せば、これも又目標が大きすぎる。

それならばという事で、若い時から気にかかっていた音韻の勉強を続けてみようと思う。それまで少しずつやってきたことを振り返り、本格的にやり始めてかれこれ三十年。自分では小さな目標にしたと思っていたのに、実際には途方もない作業が必要だった。自分でやれることを何となく見定めて区切りをつけようと一回りすると、終わるまでに欠点やらくだらなさに気が付いてしまい、愕然となってやり直す。こんなことを繰り返しながら今に至る。

限られた時間しかないことを肝に据え、出来そうな目標に限って、日々たゆまずやればこんなことにならなかったかも知れぬ。どれもこれも中途半端になってしまった。だが私の歴史が蜃気楼だとすれば、これもありかな。                                               髭じいさん

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