夏虫

先週の始めから雨が続き、肌寒い日が続いた。図書館へ行く途中でふと目を落とすと、道端にセミが死んでいた。小さな雨粒が羽一面についており、美しい姿だった。こんなことは日常としても、実際に目にすることは多くない。

その時には感情が動くこともなく視線を前にして少しばかり歩いていると、今度は蜂がやはり一匹脇で死んでいた。腹の方が少し凹んでいたが、それなりに原形は保っていた。こうなると偶然とは言えない気がして、季節の移り変わりやら雨模様のことが頭に浮かんで暫く立ち止まって見ていた。その時にはまだこれを書こうとは思っていなかった。

そう言えば、朝晩涼しくなって過ごしやすくなっている。我が家には狭いながらも裏庭があって、夜になると虫の鳴き声がしきりに聞こえる。

私の部屋には暖房やら冷房の設備がないので、季節の影響をもろに受ける。夏なら熱中症がまぢかに迫ってくるので水分を用意するし、冬場なら体を冷やさないように気を付けたりする。

屋根がある所に住んでいるので、虫よりは恵まれた環境であるとは言え、彼らとあまり変わらない生活をしているとも言えそうだ。だから彼らが目に付いたと言うつもりはないけれども、身近な存在だという点は分かっていただけるかもしれない。

これを書く気になったのは、その道中で更に蛾の死骸にも出会ったからである。恐らく普段なら気づかなかったと思う。その時にはセミと蜂のことが何かしら頭に残っていたので、雨にぬれた蛾を見つけられたのだろう。これは羽が千切れたむくろであった。

蛾は既に無残な姿になっていたが、目を背けることもなく、又しばらく歩みを止めて見ていた。

彼らは今生で本望だったのだろうか。競争に負けて不本意なままこのような姿になり果てたのか、それとも自然のなりゆきのまま充実した生き様だったのか。

人の感傷とは別に、彼らには彼らなりに役割があって、生きることも死ぬことも大自然の一部として生き抜いたのではあるまいか。

たまに偶然が重なると、今回のように前後が繋がって、感情を揺さぶられることがある。人は身につまされると、こんな些細なことも目に付くようになって、感傷に引きずられるものらしい。

私は毎日かくの如き詩人のような感性で生きているわけではない。俗世間の垢にまみれた人生であって、頭も体もぼんやりしている。ただ、こうやって結構楽しんでいるがね。

人はどうやら自分の置かれた状況に沿ったことしか目につかないようで、この夏虫たちが脳裏に残ったのは偶然ではないかも知れない。 髭じいさん

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