伊能忠敬
1745年千葉県九十九里町で神保家に生まれ、18歳の時に伊能家の養子となり、天文学に憧れる心を殺し、家業の建て直しのために働いた。酒造業のかたわら、米の取引などで成功し、名主を務め、幕府から苗字帯刀をゆるされた。天明の飢饉の時は米を放出して窮民の救済にあたった。そうした多忙の中でも、暦学(天文学)から離れず、独学で学んでいた。50歳になって、家督を長男にゆずり、ようやく「好きな事で生きる」ことを決心する。江戸に出て十数歳年下の高橋至時(よしとき)に師事し、天文学を勉強するのである。当時の天文学上の問題として子午線1度の距離を精確に求めるための口実として、高橋の勧めもあって、蝦夷地(北海道)の測量を自費で行い、出来上がった地図を幕府に献上した。これが認められて、公費で日本全国の地図作りを開始することとなる。56歳の時である。それから17年間4万キロ余を踏破し、測量を完了する。「大日本沿海輿地(よち)全図」の編纂の途中で死去するが、高橋至時はすでに亡く、その子景保(かげやす)や弟子によって完成する。忠敬の死の3年後であった。その後この地図は幕府によって秘蔵される。そして40年後の1861年、時は幕末、イギリスの測量隊がこの地図を見て、その正確さに驚き、測量を取りやめたと言われている。地図は国防上の基本であり、その国の文明の水準を示すとされるが、伊能地図は国防や国土開発などに使われた形跡はない。地図作りは忠敬を中心とした一部の人達の探究心からであった。しかも当時の平均寿命が50歳前後の時代にあって、その余生において偉業を成したことは、先見性といい、体力といい、奇跡的なことに思われる。いま、生涯学習の大切さがさかんに云われているが、まさにそのお手本のような人物である。現代の私たちにとって、最も困難で重要なことは、「本当にやりたい事」を見つけることなのではないだろうか。