少年の「非行」に思う

少年たちによる心が凍てつくような無残な事件が相次いでいる。大人のわれわれに 「なぜ!」という驚きとともに底知れぬ不安をかきたててくる。一体少年たちの中に何が起こっているのか。彼らの行動の背景にあるものは何かを考えてみたい。

「非行」とは、少年にのみ用いられる言葉であって、大人には使われない。なぜなら大人の犯罪や醜行は、社会的野心や権力欲などによって行われるのであるが、少年の非行は非教育的な環境による迫ヘと人格の発育不全であるといえるからである。大人の犯罪や社会の頽廃が少年の非行をうながす一つの条件に、あるいは精神的環境となってきているのは事実である。彼らの自らの内にあって生かし伸びようとするいのちのはたらきが粗害され、自己を成長させ、なかまや社会の希望が大きくなるという教育的環境が失われると、彼らの人間形成に大きな歪みをもたらすのである。

「非行」の増加が意味するものは、私たち大人が「よし」として作り出している今日の社会の人間関係、生活告}がどのように間違ってきているのか、問いなおしをせまる手厳しい「サイン」であるといえる。

では、少年たちの成長過程に粗害を与え、非教育的な環境を生み出す結果となった要因はいったい何であろうか。識者の多くは、「知育一辺倒」の学校教育の偏向性と、マスコミのエロ・グロの攻勢による悪影響、コンピュータゲームの普及による引きこもり、家庭や社会の教育機狽フ低下を掲げている。そこにはもちろん、それらのことも大きな要因であることに間違いはなかろう。しかし、たとえそれらのことがらが大きな要因であろうとも、いったいそのような社会告}を生み出したいちばん基礎にある、社会思想や人々の価値観はどのようになっているのであろうか。「非行」としてあらわれた根源的な原因を見定めようとするならば、そこまで問わなければ本来の解決への道は遠いように思う。

では、いったい何が根本的な原因なのだろうか。それは、どこまでも人間の知慧を頼りとし、人間中心主義のあり方を絶対視する、今日の私たちの価値意識なのではなかろうか。人間中心主義は、迫ヘ主義を助長し、差別を生み、自己の愚かしい様に気づかないまま、傲慢な自分さえよければよいというエゴイズムを跳梁させてきたのである。そこには当然のことながら、他人への思いやりや優しさ、人々の心のつながりは冷たく断絶して、人間不信をまねき、自らも人間性の喪失に陥るのである。混迷と荒廃はとどまるところを知らないのが、現代という時代なのではなかろうか。まさに地獄さながらの社会の様相は、人間の智慧の愚かさ、無明性を露呈している。

親鸞聖人は、八百年の昔、仏の智慧のことばに我が身を徹底してたずね、無明煩悩しげくしてある自分の内実性を厳しく問うていかれた。私たちは、阿弥陀の法に真直って自身を聞くこと以外に、無明性を自覚し、与えられ生かされつづけてあるいのちの真実性を見ることはできない。「生きる」ということは、自己の力によるものなど一つもなかった。全て他のもろもろの大いなる恵みによって生かされつづけられていた我がいのちであった。と感得される素直さこそが、今日の社会を生きる私たち一人一人に課せられた自覚要素なのである。「人の前を横切らないで生きることはできない」私である自身の人間としての有様を語る作家の遠藤周作氏のことばは、私たちに真実の宗教を旨として生きることの大切さを教えている。 報恩と感謝の心が開かれた人の上にこそ、はじめて本当のやさしさ、思いやりの心が具足されるのである。

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