「無限」
すこし僕は「無限」ということをなめていたかもしれない。というのは、だ。DNAの塩基配列だとかのせいで生命のしくみがなんとなく解ったような気分になっている今の世の中だが、ところで僕がどうしてこの吉良知彦なんだってことにはDNAとかはいっこうに答えてくれていないのだ。命の設計図が見つかったところで、僕がこのやっかいな体と心を持った個体を僕だと思う、その根本がなにも解らない。
生命を一冊の本としよう。いいから、このさいそうしよう。僕は吉良知彦という題名の本を今読んでいる最中だ。いや、読まれている最中だ。吉良を読み終わったら「僕」は他の人の本読むかも知れない。もしかしたら「ジョン・レノン」みたいな本を読むかも知れない。「鈴木むねお」なんて本を読んでしまう可能性もある。みんな本だったら誰だって誰にでもなるんじゃないか?「意思」というものがあるとしてそれが「読みたい本を選んで読んでいる」。そう思うとなんだかココロガふとおだやかになる。あれこれ考えて行き着いた、僕の今んとこの「自分」あるいは「僕」の解釈だ。
みたいなことを昔から人は考えてきて SFの世界ではパラレルワールドなんて都合のいい考え方も出てきた。三次元の次の「時間」がおのれをさらけ出す次元、その先の未知の次元に「ウャン!」と並んだムリョタイスウの宇宙が存在する。そこに少しずつ違った僕やあなたがそこにいるんだ、と愛するP.K.DICKは教えてくれた。今に生きる僕たちはもう少し考えを進めよう。「意思」によって読まれることだけを期待する「本」がそこには全ての命の数だけそろっている。ヒトだけでないよ、サルも猫もカンガルーもキツツキもザリガニもゾウリムシも、そうだ忘れちゃいけない植物も、とにかくぜーんぶの生き物の、とにかく全ての本がある図書館を思おう。森で足を一歩踏み出す、その一歩の下に億の命があると聞いた、そのぜーんぶを読むことが出来るし読まなくってもいいんだ。そういう本屋さんか図書館みたいなものを思ってみる。そこに『「意思」の「僕」』は無限に通い詰める。
でも星は地球だけじゃない。宇宙を一単位で思うんなら他の星のことも考えてあげなくっちゃ、でもう大変なことになってしまった。でも「無限」の前ではどうということもない。