恐竜を見に行く
僕には今、何度目かの恐竜ブームが来ている。子供に買ってやったポケットサイズの恐竜図鑑を眺めていたら、なんだかやっぱり恐竜はすごいな、とあらためて魅せられてしまったのだ。その図鑑では二足歩行の恐竜はみな足を中心に地面に体して水平の姿勢をとっていた。今にも獲物に飛びかかりそうな迫力だし、草食の連中も昔のどんくさいイメージでは全然なくって、強力な装甲や鞭のような尻尾でもって隙を見せたらたとえ捕食者に対しても防御で無く攻撃をしかけていくぞ、というたたずまいである。なによりジュラシックパーク以来のあこがれの存在、ヴェロキラプトルとその仲間には立派な羽毛が描かれていて、美しくさえあるのだ。凶魔ナしなやかな殺し屋、に美しさという新たな魅力がいやおうなしに加わってしまった。そんなこんなでどうしても本当の恐竜を見たくなった僕は子供を誘って国立科学博物館に出かけてみた。本当といっても骨だけなんだけど、骨格を前にして生前の姿に心を遊ばせてみよう、というわけだ。
日曜日はあいにくの冷たい雨。車ででかけることにした。首都高はがら空き。上野まで三十分で到着だ。これなら博物館も空いててゆっくり恐竜を堪能できるな、なんて思っていたら甘かった。ボーイスカウト風の集団やら家族連れで一杯でした。とても骨格標本を前に空想に耽っている雰囲気では無かった。そんじゃま、僕らも流れに身をまかそう。
落ち着けはしなかったけど、実物大のティラノザウルスの骨格はド迫力だ。この口に飲み込まれたかもしれない先祖の哺乳類たちの気持ちを想像したりしてみる。アパトサウルスの堂々たる風格。これは竜脚類でも小型の方で、最大のアルゼンティノサウルスにいたってはこの博物館におさまる部屋は無さそうだ。始めてみる恐竜に息子も感極まっていた。「これ、ほんものなの?」とさかんに聞いてくるが、なんと答えたものだろう。「うん、本物の恐竜が、死んで骨になってそれが石に変わったのを掘り出して組み立てたやつを型取りして、ここに置いてあるんだよ。」と言ってもつまらないので、「うん、本物だよ。こんなのが大昔には生きて動きまわっていたんだ。」と答えておいた。僕が一番ぐっときたのはディノニクスの全身骨格だ。意外とサイズは小振りで、立った姿勢で人の胸くらいの高さしか無い。しかし、前後には二メートル半ほどあて、尻尾は真直ぐにピーンと伸びている。恐ろしい鈎爪を備えた手足を構えてまさに何ものかに飛びかかろうとしているその姿は、骨だけになってなお鳥肌が立つような凄みがある。こんなのに狙われるような時代の生き物で無かったことに感謝するのと同時に、こいつの生きた姿を目の当たりにできないことをとても残念にも思う。
お腹が空いたので館内のレストランに入るのだが、これがすばらしく切なかった。僕達が小学生の頃のデパートの食堂そのものだ。ビールを頼むとアサヒのドライのしかも小瓶が出てきた。侘びしさもひとしおである。昭和の記念碑のような御飯を食べ終えて、他の展示物を眺めた。息子はそれなりに夢中になっていたが、こちらのほうは僕にはおおいに物足りない。虫の標本など、あるにはあるのだが、せっかく新館をつくったのに古いまんま。すべてが色褪せている。そして妙に教育的なのだ。擬態のはなしとか、地域による変異など、教えるのも悪く無いとは思うのだけど、ここはやっぱり、美しい標本をどどーんと盛大に展示して、まず虫の素晴らしさを伝えたらどうなんだ、えっ!などと僕は少々喧嘩腰の気分になっていった。こういうのは個人所蔵のコレクションの展示会なんかにぜんぜんかなわない。日本の博物館のしょんぼりな現実だ。なにか、お役所仕事、というような言葉まで頭を掠める始末だ。その後、海洋生物、人類の進化、バヌアツの植物相、などを見るのだがいっこうに気分は高まらない。息子もだんだん飽きてきた。「つまんないからもう一回恐竜のところに行こうか。」と言うと、「そうだね、あそこがいちばんおもしろいからね」。ほらぁ、子供だって分かってるんだ。
恐竜のところに戻るとさっきより少し空いていたので、息子は放し飼いにしてしばし骨格標本の前で呆然としてみる。「・・・うーん、やっぱすげぇ!」
こうして僕の超短い恐竜時代への旅は終わった。
最後にグッズ売り場で息子がブラキオサウルスのフィギュア、僕がヴェロキラプトルの鈎爪のキーホルダーをそれぞれ購入し、ニコニコ幸せな気分で帰途についた。
なんだかんだと文句はいろいろあったけど、恐竜的には大満足だったので素晴らしい一日、のようではあった。パリの博物館はうわさによると凄いらしい。今年も行くことになっている僕の苦手な街なんだけど、一つ目的ができたあので少しだけやる気が出てきた、かもしれない。