その後の空気漏れ人間
今週も病院から書くはめになりました。肺に空いた穴は一週間たっても、塞がる気配を見せず、結局明日、外科で手術を受けることになりました。簡単な手術なので術後2日ほどで退院できるそうです。なーんだ、そんなことなら始めっから手術してくれればいいじゃん、と内なる大群衆のブーイングが聞こえてきますが、当初は治療だけで治る算段だったので今となってはいかんともしがたい感じです。
とはいえ、病院側からの説明がなにかと事後承諾のかたちをとりがちで、患者がわけもわからず病院側のスケジュールに翻弄される、という状況はハッキリ感じ取ってしまいました。現場の看護婦さんの大変さも10日間でいやというほど理解しました。やはり、この有り様にはシステム的な根本的な問題が原因していると言わざるを得ませんが、あまり文句ばっかりかいてへそを曲げた病院の神様が僕の手術で悪戯されてはかなわないのでこの辺にしておきます。
さて、今回の入院では僕がいかにいろんな人に助けられて生きているのかということを改めて痛感いたしました。毎日の着替えや物資の調達を一手に引き受けたうえで日々の業務をこなす妻や、慣れない小学校生活でいっぱいいっぱいであるにもかかわらず、毎日笑顔でやってきて僕を勇気づけてくれた息子はいうにおよばず、自分のライブに穴を開けてしまった僕にかわって素敵に楽しいライブを繰りひろげてくれたミュージシャンの仲間たち。間の悪い僕に対してひとことの恨み言もなく、僕の回復を願ってくれたファンのみんな。みんな、ほんとうにありがとう。病室での退屈対策にいろんな本を持ってお見舞いに来てくれた大勢の友達。ありがとう。おかげで僕の病室はちょっとした学級文庫状態です。蔵書はかなり下品ですが。
とにもかくにもこの10日間の間に自分が沢山の人に支えられていることを認識したわけなのですが、普段健康な時は、こういうことを意識することはまずありません。僕はわりと傲慢な人間なので、なーんにも思わずに生きてきたしまったようです。今回の出来事は「おまーだけでいきちょるんじゃないっつーことを、このへんできもいれてよーっくみにしみさせてあげっからね、じっさい。」という神様のおぼしめしだったのかもしれません。
そう考えると、この病院で僕の命のために働いてくれている医師、看護士、掃除のおばちゃんなどにも当然感謝の念が湧いてきます。冒頭で書いたような病院に対する不満等も勢いがにぶってしまいがちですが、感謝するところはする、文句のあるところはきちっと文句する、というようなめりはりのあるスタンスを固めて行くことが肝要かと思われます。
手術が終わって退院して、その後の生活が始まってからも、そのあたりのことを忘れないように生きて行こう、とこのようなことを今の僕は考えておるわけです。