横丁のご隠居
喫茶店でご隠居が難題を持ちかけてくる。「刑法はどうなっとるんや。最近のニュースを見ると、簡単に人を殺したり、重大な犯罪が多い」という内容のものだ。彼は横丁の長老であるから、知らん振りを決める訳にもいかない。単なる相槌を打つには問題が重大であるから、なるべく穏やかに自分の意見を言うしかない。これを読む前に一言。どうか、一部を自分の都合にあわせて解釈するのは控えていただきたい。
私は、全ての人に本来人のものを盗んだり、人を殺したりできる権利があると考えている。実は、日本でもそういう時代が長かった。腰に刀を二本差して外に出なければ安心できなかったのである。今でも、短刀や銃を懐に忍ばせなければ生きていけないと思っている人もいるだろう。
だがこんな社会では、いつも自分と家族の生命を自力で守らなければならなくなる。命や財産が常に危険に晒されているといつも緊張していなければならず、人を信用することも難しい。私はこんな憂世で長生きしたいとは思わない。
そこで法が必要になるのだ。法の根源には、例えば私は自分の持っている人を殺す権利を放棄するから君も放棄するという、互いの約束がある。合意がなされると、少なくともこの二人は互いに殺しあわなくて済む。まあ、このようにして近代の法治国家が生まれたのである。
私が人を殺さないのは、殺さないと約束したからであって、殺すのがいけないからではない。但しこの法の下では、自分が殺されてもいいから人を殺すということも禁じられる。互いに自由で平和に暮らす為である。
私が死刑廃止論者でないのは、横丁の隠居と同じだ。人を簡単に殺す人間がいるのに、この人間を絶対に殺さないというのが近代の法理論なら殺す方に有利である。
過失で人を死亡させる場合でも、それなりの責任を負わなければならない。まして、勝手な理由で殺人を犯すことは、法治国家に生きる資格がないことを示している。
裁判はもとより、長期にわたり刑務所で収監する経費も税金でまかなっている。犯罪者が充分反省し、社会の戦力として再び活躍できなければ、彼等を養う必要がどこにある。生きる術がなく再犯を犯す者が後を絶たないのは、まず本人の自覚に問題があるとしても、社会に一端の責任がある。我々は、人間を見抜く力を付けなければなるまい。見抜いた上で、彼等が再度社会の一員として生きていけるように応援することも、自らの市民権を確保するのに欠かせないのである。
いずれの時代であれ、互いに信頼することを、自らの責任で行う必要がある。