人の死と歴史

生きる者は全て死を避けられず、これを嘆き悲しむ者もいずれは屍となる。今日は形而上の話で、やや観念論に傾くかもしれない。
人は個人としてみれば生き物であり、長短の違いがあっても、いずれは死なねばならない。人生は時間に制約され、永遠には生きられないのである。
個人として生き方を探るのは哲学や宗教で、視野の広い考え方もあるし、そうでないものもある。何となく不安であったり、知性が曇ることを恐れるだけで死を択ぶ者もいる。
他方、人は様々な関わりをもって生きている。家族、地域社会、国家や果ては国際関係まで背負って生きている。政治や経済学などの社会科学が必要な所以である。
個人として死亡した後でも、身内や仲間の記憶に残っていれば、生存の香りを残していると言ってよい。歴史学の出番である。
歴史学が、今目前に見える「ドラマ」をより面白くするためこれに到った道程を知ることだとすれば、一応うまく定義されたことになるかもしれない。
だが人間社会は、無数のドラマを内包しているとしてもドラマではないし、ロマンに満ちているとしてもロマンではない。これだけでは、差し迫った問題を解決する糸口を見出せまい。
現実の問題が毎日の生計にある場合は背水の陣を布かねばならないし、生老病死であれば不安と向き合うしかない。理不尽なシステムの場合であれば、これに至った経緯を十分わきまえ、戦略・戦術をねり、不退転の決意をもって闘わねばなるまい。私のように愚かな者にとっては、愚かさと闘うこともまた血みどろであり、容易でない。
歴史学は、過去に規範を求めるだけではなく、現在を変革する知恵を求めている。各人の求めるものに従って形が変わるとしても、現実を変えることを見通す未来学でなくては面白くない。
生身で記憶する者がいなくなったとしても、また名を残すことがなかったとしても、死者もまた歴史の中で生きている。死者には手向けを、生けるものには応援メッセージを述べるのがこの一文の主題である。