金印(11) -「伊都國」-
金石から離れて軽々しく別の史料に言及し、古代史に首を突っ込むことが愚かだとは充分承知している。だが、金印の位置づけを試みるという意味で付き合ってほしい。
『魏書』東夷傳・倭人条には、「東南陸行五百里 到伊都國 官曰爾支 副曰泄謨觚 柄渠觚 有千餘戸 世有王 皆統屬女王國 郡使往來常所駐」とある。
先に一応「至」「到」の用例を検討しておいたので、ここでは「伊都國」が中国使節の到着地点であったことだけ述べておく。『説文』で「都」は「都 有先君之舊宗廟曰都 (中略) 周禮 歫國五百里爲都」(六篇下140)であった。
これから、「伊都」を漢語として「これ都」と読めば、「伊都國」には先君の旧宗廟があったことになる。
私は倭人条の「其國本亦以男子爲王 住七八十年 倭國亂 相攻伐歴年 乃共立一女子爲王 名曰卑彌呼」を、「委奴國」が「倭國(男王)」に発展し、七八十年して「倭國亂」となり、女王国の成立後「伊都國」に零落したと解している。
この文脈でよければ、「伊都國」に「先君の旧宗廟」があったことになり、充分漢語を理解した命名と考えられる。
また『説文』周禮説の「歫」を「距」とすれば、「五百里」がその勢力圏となり、うっすらとかつての姿が見えてくる。「東南陸行五百里」は「伊都國」を中心にすれば、中国王朝の擬制とも考えられようが、また乱以前にあった旧「倭國」の国土を示す痕跡とも考えられる。これでよければ、女王国の位置もおおよそ見当がつきそうだ。
官名については機会があれば検討するとして、「千餘戸」と云うのは国家として大きくないとしても、乱後の零落した姿とみれば、決して小さいとも言えない。
「世有王 皆統屬女王國」は、「世」を「代々」と読めば、「伊都國」が代々「女王國」に属していたことになる。だとしても「女王國」は倭国の乱で生れた共立の国家だから、女王国の成立以後、「伊都國」が「倭國」の主たる国家でなくなり、これに属するようになったことを示すだけではないか。卑弥呼が「長大」でかつ彼女の後も女王であったと記されており、しかも「世」であって「世世」ではないから、「伊都國」の王が何世代かにわたって女王国に「統屬」したと解せる。
「世」を一世紀中ごろまで遡らせて、「委奴國」を女王国の前身とみる説がある。「倭」の語源を検討しなければならないとしても、私は「委奴國」と「女王國」は系統が異なると考えており、「女王國」が倭国の乱で生れた点を重視している。
「郡使往來常所駐」は、「常」が漢代からとすれば、「伊都國」が「委奴國」へ遡れる根拠になりうる文である。