好太王碑文(4) -「破百殘」-
前回は「渡海」の「渡」が動詞であり、「來」と同じく、「倭」が主語であると論じた。今回も引き続き主語の話で、「破百殘」を考えてみたい。
すでに『説文』入門(32)で「屬民」と「臣民」を扱っており、この両者に微妙な違いがあることを示せたと思う。「百殘新羅 舊是屬民 由來朝貢」は永樂五年(395年)条に記されている。高句麗からすれば、「百殘・新羅」は古くから「屬民」であり、よって「朝貢」していたという立場である。新羅と並列されているので、「百殘」は百済と考えてよかろう。倭が辛卯年(391年)に来るまで、高句麗とこの両者との臣属関係が継続していたと主張している。
六年条には「以六年丙申 王躬率水軍 討科殘國」とあり、冒頭の「以」は、時間<in>を表すと共に五年条を順接で受けている。
これは前後の文脈のみならず、続く八年、九年、十年、十四年、十七年、二十年条の全てが、「以」で始まる六年条とは異なり、年次で始まることからも分かる。つまり六年条以外は、年次で始まっており、ほぼ編年体であると考えてよい。
とすれば五年条には、翌年に好太王自ら水軍を率いて百済を討たねばならない事情が書かれていることになる。だからこそ、例え辛卯年に倭が百済以下を破ってこれらを影響下に置いたとしても、高句麗が兵を派遣して「百殘」を再び「屬民」という古の関係に戻すことに大義があるのだと述べているだろう。
六年条の末尾に好太王が百済を討ち、「歸王自誓 從今以後 永爲奴客」とある。これ以後であれば高句麗が百済を「奴客」とし、更に「民」から「臣民」にしたという解釈が可能かもしれないが、五年条ではすわりが悪い。
「渡海」のみならず「破百殘」の主語が好太王だとすれば、辛卯年になぜ倭がやって来たのか分からないまま、六年に好太王がまた百済を破らなければならなくなる。言い換えれば、既に「屬民」として朝貢していた百済を、大義もなしに、またなぜか海を渡って破り「臣民」にしなくてはならなくなるのである。
倭の「臣民」という読み方に関しては、稿を改めて書くつもりだが、九年条に「倭人滿其國境 潰破城池 以奴客爲民」とあり、「潰破」「爲」の主語が倭人であることは間違いなかろうし、「奴客(新羅の王と民)」を「民」にしたとする表記から、これを高句麗の定義する「屬民」ではなく、「臣民」と表記しても不自然とは言えまい。