石拾い
この頃一人で散歩をしても、たまに孫と一緒でも、川原に降りることが多い。脳が単純化して同じ行動を繰り返している可能性もあるが、自分の意識では、川の流れをじっと見ているのが飽きないからである。
夏ならば、冷たい水に触れ、冷気にあたるだけでも気持ちがよい。だがここは鮎釣りで有名らしく、いつも人がいて竿を出している。私は魚釣りをやらないから、どうしても遠慮して、彼等には近づかない。孫と一緒なら、勇気を出して、たまに下りていく程度である。
ここは山の中であり、特に寒くなると、すぐに時雨れたりする。飛騨で雪が降ったという話を聞くこの時期、わざわざ川原に下りる人はめったに見かけない。
晴れていても風が強い日には、川べりを歩くと体温を奪うので、散歩のコース自体を変えてしまう。また雪が降れば、すべり易いし、川に近づく気にすらならない。条件が整えば、わずかな晴れ間をぬって、あわただしく出かけるというわけだ。
散歩に目的はいらない。冬枯れの草や木々を眺め、大きな丸い石に腰をおろして、ただ水の流れを見ているのが妙に楽しい。私が育ったところでは、こんな奇麗な川はなかった。水を眺めているだけで、自分がここにいるのが不思議な気分になってしまう。
周りを見ると小石がころがっている。ここらあたりだと、川中の岩はごつごつしていても、流れてきた石は大きなものでも丸みを帯びたものが多い。だが、下流域にあるような角の全くないまん丸のものではない。
ふと我が家の庭に敷いてある小石を連想した。日当たりが悪く、水はけも左程ではないから、土を被ったような黒いものが多い。腰を上げて白っぽく丸い小石を何気に二三個拾った。ポケットに入れて持ち帰り、庭に放り入れてみたのである。すると、大きさはほぼ同じでも、それらには周りとは異質な明るさがある。河を流れるうちに荒々しさが取れ、しかも雨風にあたっているからか、石が無機質の美しさをもっている。
それからは、川原に下りると必ず何個か気に入った丸い小石を持ち帰るようになった。こんなことを繰り返すだけでも、生きていることを満喫できる。歳をとり、死と向かい合って生きざるを得ないことがむしろ生を軽くしているのかもしれない。