『説文』入門(41) -「壹」と「臺」(下)-
今回は、「邪馬臺國」と「邪馬壹國」が異名同国と考えられるかどうかに迫ってみたい。それぞれが確かな記述に基づいた国であるが、異なる史料に記された異なる国名であり、手順を踏まないと関連付けることができない。
結論を言うと、私は、以下の三つの理由から少なくとも同一系統の国であったと考えている。
1 『三國志』魏書倭人条の「邪馬壹國」「壹與」は、陳寿が魏の大義名分論によって「臺」を「壹」に書き換えたと考えられること。
2 『後漢書』倭条の「邪馬臺國-倭奴國」の関係が、『三國志』倭人条の「邪馬壹國(女王國の都)-伊都國」のそれと対応していると考えられること。
3 私は「卑彌呼」「壹與」を呉系と考えており魏晋代には「邪馬壹國」として、また同系統の倭五王の時点で『梁書』には再度「(邪)馬臺國」として記されていること。
1について、陳寿は「臺 輩也」「壹 輩也」の義を念頭に置いていただろう。また傍証として『三國志』巻五十一呉書宗室傳第六に「孫賁字伯陽 父羌 字聖壹 堅同産兄也」とある例を挙げたい。孫賁の「父羌」は「堅」の同母兄で、堅は孫策、孫権の父親である。
確かに次男の堅が「文臺」、末弟の靜が「幼臺」とされるから、清の盧弼が郝經の『續後漢書』に基づいて長男の「聖壹」を「聖臺」と解したのも無理はない。だが、これだけで「聖壹」を「聖臺」と改訂することはできまい。版本からして、あくまで『三國志』には「聖壹」と記されていたはずである。
魏の皇帝は「魏臺」と呼ばれていた。陳寿が諱に準じ「臺」字を避けて「壹」字を用いたのは、孫賁の父親が「羌」という名であったからではなかろうか。この点、東夷である倭人の国名と女王名に「壹」字を用いたことに符合する。だとすれば魏の大義名分論のみならず、彼の中華思想も背景にあったことになる。
2について、私は「倭奴國」を「伊都國」と解し両者を越系とする立場をとっており、我田引水のきらいがあるかもしれない。とは言え、有力であったと思われる「倭(委)奴國」と「邪馬臺國」が倭国大乱を経て全く痕跡を無くすというのも考えにくい。
『後漢書』倭条で通行する国は「三十許國」、『三國志』倭人条では「三十國」とされており、大乱前後で国数に左程の変化がない。
また倭人条で「狗奴國」を除き、「伊都國」「邪馬壹國」のみに王がいたとされる点も、それぞれ「倭奴國」「邪馬臺國」に対応していると読める。
3は、卑彌呼から倭王武まで呉系であることを前提にしている。だが、これだけで「邪馬臺國」自身が本来呉系であったと断定しているわけではない。彼らが主張する「太伯之後」は、太伯には子供がいなかったと伝えられておりこのまま信じられるわけではないが、ほぼ三百年間公式に主張し続けられているのであるから、何らかの根拠があったに違いあるまい。
以上、私は陳寿が「邪馬壹國」と表したことから、逆に『後漢書』の記す「邪馬臺國」という国の実在性が高まったと解している。従って同一国家の異称と考えてよければ、後漢代を「邪馬臺國」、魏晉代を「邪馬壹國」と呼ぶのは混乱するだろうから、人口に膾炙する「邪馬臺國」で統一してよいのではないか。