『説文』入門(54) -「接」-

このシリーズはもともと備忘録として、肩の凝らない文章で、楽しみながら書くと決めていた。テーマについても、その時々、割合読み手が興味の持てそうなものを選ぶつもりだった。
ところが書き始めていくにつれて、自分がしばしば間違えてきたテーマを数多く取り上げており、反省文みたいなものが多くなってしまった。自分の力がどんなものか思い知ったのである。これはこれで、私のような愚かな間違いをしないでいただきたいという気持ちが背景にある。
ところが歴史学などに関連するとなると、出典を明らかにする必要があるし、時に細かなところまで触れないわけにもいかない。力を試されているわけだ。
環境の良い田舎に住んで思うように勉強できるのだから、言い訳ができるはずもない。時間がありさえすれば、手にする史料に限界があるにしても、けっこういろいろな視点から切り込むことができる。ところが一人でこういったことをやっていると、どうしても独りよがりになりがちだ。史料に基づいたことだけを言えばいいのに、コラムで厳密な定義をやるわけにもいかないから、推測することが多くなってしまう。
愚痴はこれぐらいにして、たまたま『説文』をめくったところに「接」という字があったので、今回はこれを取り上げてみる。
『三國志』魏書東夷傳弁辰条に「其瀆盧國與倭接界」という記事がある。「瀆盧國」と「倭」が界を接することになっている。これをどういう解釈するかは、倭人の勢力圏に関して、重要である。東夷傳中の用例を見ると次の通り。
1 「夫餘在長城之北 去玄菟千里 南與高句麗 東與挹婁 西與鮮卑接」(夫餘条)
2 「高句麗在遼東之東千里 南與朝鮮 濊貊 東與沃沮 北與夫餘接」(高句麗条)
3 「北與挹婁 夫餘 南濊貊接」(東沃沮条)
4 「挹婁在夫餘東北千餘里 濱大海 南與北沃沮接」(挹婁条)
5 「濊南與辰韓 北與高句麗 沃沮接」(濊条)
6 「韓在帶方南 東西以海爲限 南與倭接」(韓条)
7 「其瀆盧國與倭接界」(弁辰条)
『説文』では「接 交也 从手 妾聲」(十二篇上211)となっている。「交」は「交わる」でよさそうだ。その「交」について、段氏は「交者 交脛也 引申爲凡相接之偁」と記す。「脛」は「すね、はぎ」だろうから、「交は脛をまじえる、引いて一般にあい接する称となる」あたり。
1から7までのすべての用例を、『説文』の義で解しても問題はなかろう。とすれば、「瀆盧國」と「倭」は実際に脛を交えて接していたわけだ。私はまた、烏丸および鮮卑傳で国境を「接」を使って表していないことにも注目している。遊牧の民だからだろうか。
『史記』の例を一つ。「當此時 晉彊 西有河西 與秦接境 北邊翟 東至河内」(巻三十九晉世家第九)で、「接境」は秦と国境を接している義で間違いなかろう。
従って韓条や弁辰条の場合も、「海を介して接している」とは考えられない。この考え方では、海を介して中国とも接していることになり、中華思想や四夷観と乖離してしまう。
以上から、倭人が韓半島の南端にも展開していたことは確かである。この点、同倭人条の「從郡至倭 循海岸水行 歴韓國 乍南乍東 到其北岸狗邪韓國 七千餘里」からも証明できるだろう。「其北岸」は「倭の北岸」であり、倭の勢力圏は海峡を挟んだ両岸にあったことになる。
私は、これが『後漢書』倭条の「極南界」を解する一つの根拠となると考えている。

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