極南界(5) -東北界-

歴史学は、史料に記されていることのみで織っていく。記されていないことを推測するには、多くの人を納得させるだけの実証ないし論証が必要である。だがこのテーマに関して言えば、列島史の黎明期であり補足する史料もままならず、何度も試行錯誤するほかない。これは、その一つと考えていただければ幸いである。
私は「倭奴國」が「倭國の極南界」(極南界3)にあると読んだ。この場合の「倭國」は、漢に通行した「三十許國」の緩やかな繋がりを想定している。また、「拘邪韓國」はこの「倭國」の「西北界」にあると解した。
この「西北界」は、「倭奴國」が南で「拘邪韓國」が北という単純な南北方向の直線ではないから、北界が東西に広がっていることを前提していたと読めないか。
私はこの「倭奴國」を金印の「委奴國」と解しており、金印が蛇鈕であること、および『三國史』における陳寿の記述から、越系であると解している。また、三十国ばかりで構成する「倭國」には「倭奴國」以外にも越系の国が相当数あっただろう。
ところが「倭國大亂」以後、「卑彌呼」から「倭の五王」に至るまでほぼ三百年にわたって、呉系が倭国の主たる勢力になる。これによって、越系の消息がそれとして掴めなくなってしまう。
私は、『舊唐書』の記事から、梁代に「倭奴國」の後継国家が復権したと考えている。
『梁書』東夷傳に越系の「文身國」「大漢國」が記されているのは、以上のような経緯があったからではないか。とすれば、両国が後漢代に遡れる可能性がでてくるだろう。文面を見ていただく。
1 「文身國 在倭國東北七千餘里 人體有文如獸 其額上有三文 文直者貴 文小者賤」
2 「大漢國 在文身國東五千餘里 無兵戈 不攻戰 風俗並與文身國同而言語異」
「文身國」は倭国の東北七千余里にあり、額や体に文身を施しているという。私は六世紀前半あたりでも、しっかりした広範囲の領域国家は存在していなかったと考えている。小国が各地に点在していた。またこの国が越系だったことは間違いなかろう。こうした前提からすれば、かつての倭国の飛び地とも考えられるわけだ。「大漢國」もほぼ同じ文脈上にある。
『梁書』東夷傳自体が信頼性に欠ける史料だとしてその殆どを捨ててしまう歴史観では、この仮説はなりたたない。充分通史を検討した上でしか当否が判断できないとしても、初めから手足を縛ってしまう必要はあるまい。
以上、「拘邪韓國」が西北界、「文身國」「大漢國」の前身が東北界にあったとすれば、「倭奴國」の極南界は地理上に実態のある表現であり、「倭國」がゆるやかな海洋国家群と考えられていた可能性が出てくるのではあるまいか。

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