愚者のこだわり
古今東西誰にでも拘りはあるものだろう。何かにこだわっているからと言って愚かだとは言えまい。ところが頑固だとか、固陋とかまでいくと、愚かさと背中合わせになる。勿論、私は後者だ。
この歳になってやっと分かってきたことがある。誰でもうすうす自分の人生に限りのあることは知っている。賢者と呼ばれる者であれば、この世にいるうちに、自らの命を全うするに違いない。仮にそれが不可能だとしても、自らの寸法をわきまえた上で、この世で出来うる限りの仕事をしてから去っていくだろう。
ところが私の場合、自らに課したテーマなのに難易が分からず、その半ばにすら至っていない惨状である。それでも若いときであれば、まだ望みがあると錯覚できた。しかしこの歳になっても殆ど状況が変わらないとなると、自らに言い訳できないのである。
やれ学問だとか、文化となると、あたかも命を捧げるのが尊いような風潮がある。条件の整った人なら、それはそれでよろしい。そういう人たちには、しっかり仕事をしていだだきたい。できる限り応援したいと思う。
他方で、私のような小市民にとっては、自らの限界を知ることが大事である。とは言え、市井にあって格調高い仕事をやってのける人を道連れにするつもりはない。
一般に、人は衣食や時間にゆとりがあるからこそ、自らの目指す姿を求めて知性や技術をみがくことができるだろう。それなりの生活ができることが前提で、細部まで神経が行き届いたり、視野を広げたりできるのではないか。
今となってみると、生きることに集中する必要がある。能力や時間に問題を抱えている以上、高邁な理想を掲げることはやめるに越したことはない。分に見合った課題を設定し、ほどほどにすれば、人生を楽しめそうなことは分かってきた。身に染みて分かってきた。
なのに、どうにも軌道修正できない。若いころの遼遠な考えを捨てないで、いつまでも抱き続けると齟齬が起きる。自分では何十年経っても変わらぬ価値があると確信しているけれども、これをうまく人に伝え、何とかその一部でも実現させようとすると話は別だ。
日常に追われ、全体像をつかめないまま、テーマを成熟させることができなかった。何をどうすればよいのか分からず、途方に暮れたまま、老いぼれてしまったのだ。こうなると、残念ながら、はるかに分を過ぎた人生であったと認めざるを得ない。
いったいテーマというのは何だったの、 「これだけ長い歴史がありながら、なぜ人はこれほど愚かなのか」だよ。
だからどうするかって、今まで通りやるさ。