悲観

誰であれ歳をとるにつれ、得られるものと失うものがあるだろう。得られたものを過小評価しているからか、私は悲観することが多い。
若い時なら、何度誤ったとしても、その都度やり直せばよい。この点は晩年になっても変わらないはずだが、なぜか無力感にさいなまれる。これには幾つか理由が考えられる。
ただし、この点について誰とも話し合ったことがないので、私だけの事なのか他の人にも当てはまるのか分からない。と言うようなわけで、以下は全て私自身に焦点をあわせている。
肉体が日に日に衰え、これが覆いがたくなってくると、あらゆる面で不安になる。
今の自分を青壮年期と比べ、すっかり老いぼれてしまった落差を感じているのだろうか。特に敏捷性や瞬発力を必要とする作業で、かつての自分なら何とかこなせたのに今はできないと自覚することは結構しんどい。
年齢を重ねると集中力が落ちるからか、視野が狭くなるからか、細かい間違いが多くなる気がする。近頃、自分らしさに細かな穴があき、自信を失いやすい。精神だけが突出して軒昂になるわけだ。
仕事のことで言えば、体が資本なので、かつて自分に課していた水準から段々遠くなっている。若い時なら、出来るか出来ないかは別にして、気になりさえすればどんな細かなことでも突き詰めようとしてきた。体力がそのまま根気に繋がっていたように思う。今も仕事に関しては、同じ構造のはずだが、根気が薄れつつあることを認めざるを得ない。
心身ともに衰えることが否定できないのであれば、どう対処するか。根本治療はなさそうだが、指針ぐらいは手に入れたい。これにしても、まずは自分を振り返ってみるよりない。
体力を補うことができないとすれば、その時々の衰えている状態を前提にするほかあるまい。これからも現役でやらざるを得ないのであれば、無理のない程度に、鍛えていく必要がある。しっかり体を動かすようにせねばなるまい。
厳密な論理や柔軟な推測、素早い判断や決断力などを保つことは難しかろう。これらを失うのと裏腹に、歳をとることで得られるのは経験である。
ゆっくり落ち着いて、バランスよく物事を考え、持久力を生かせばまだ少しはましなことができそうだ。
定年後、二か月かけ、自分の船で瀬戸内から九州を一周した人がいる。若い人ならさまざまな課題を持って、妥協せず、全速力で走ろうとするかもしれない。
しかし彼は自分の技量を弁え、決して無理せず、ぬたりぬたりと母港へ帰ってきたそうな。参考になるではないか。