白昼夢

優柔不断と云うのは、人生の岐路にたってもぐずぐずして決断できない義あたりか。ところが、私の印象では、どちらにしても大して変わらないときに意思決定ができないことが多い。後者の場合は、「どちらでもいいよ」と言って、相手を困らせたりする。今日の話は、岐路にたつ前者の場合である。
私が若い時から優柔不断だったわけではない。いろいろ相談するにしても、独断することが多かった。私がここに住んでいることからして、人が納得できそうな理由が見当たらないし、今もそうである。それにしては、随分長い間ここに住んできた。
この他どの場面であっても、私なりに熟慮し、自分の責任で決断してきた。事に当たって迷うとしても、行きつく先は動くか、動かないかである。
振り返ってみれば、かくのごとく、自分の好むことを貫いてきた。とすればなぜ、今自分がかくのごとく戸惑い、一歩を踏み出さないのか不思議である。
よく考えてみると、これは単なる安全志向に過ぎないということが分かる。誰であれ、乾坤一擲の決断をしなくても生きていけるのであれば、自分の生き方を変えようとしまい。文句を言っても、人は実際にはぬるま湯の中で生きることを選ぶだろう。波風を立てる必要がないわけだ。
これからすれば、有りがたいことに私が近年まで安穏に生きてきたということが分かる。それでは、この条件が整わなければどうするか。
自分が成り立ちがたいほど状況が変わらない以上、これに気づくことすら難しい。馬鹿の居心地がよいものだから、すっかり馬鹿になってしまった。周りがすっかり変わってしまったのに、方向転換ができなくなってしまったのである。
どうやら、これには実績にも関連するらしい。若い時には、さほど成果がないにもかかわらず、武断できた。私の場合は、若気の至りと言えそうだ。
ところが、この歳になると、同じような場面でも躊躇してしまう。人に誇れる実績があれば、困難な局面でも、落ち着いて意思決定ができるかもしれない。だが、自分のやってきたことに自信が持てないのである。
自分が培ってきた人間関係にしても、自分の方から委縮してしまう傾向が出てきた。根気よく自分の立場を説明することはおろか、相手の言うこともじっくりは聞けなくなっている。内にこもった頑固じいさんになってしまったということか。
それでも生きるには、なんとか身をごそごそさせる他ない。例え実績が整わないとしても、何とかアピールして生きていかねばならない。
なんだか悪夢のような気もするが、この歳になっても、私は浮草稼業が似合っているらしい。

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