多胡碑(下)
金石文では字画を減らす例が多い。素材によって細工の難しいことがあり、新たな字体が生まれたりすることもある。略体にするとしても、音義などをもとにして、容易に原形へ遡れるのが約束事と考えてよい。
私は「給羊」について、「羊」は「養」の減筆ないし仮借とみてきた。かなりしっかりした漢文である印象を持ったからである。
本碑の場合、省文説でも「養」のほか、「群」「詳」「祥」など「羊」を音符とする文字が候補になっている。つまり「羊」を声符とする諧声字が候補になっているわけだ。
そこで該当する原文を振りかえってみると、「弁官符 上野國片岡郡 緑野郡 甘良郡并三郡内三百戸 郡成給羊 成多胡郡」となっている。
「群」は「郡」の意味で使われ、通用することがある。だが、この場合は他に「片岡郡」「緑野郡」「甘良郡」「三郡」「多胡郡」の五例あり、「郡」の通用字にする必然性に乏しい。
「詳」は、「佯」「洋」などと共に「羊」と同音で、確かに仮借字として使われている可能性がある。この文に入れてみると「郡成給詳」となり、何とか和語で読み下せないこともあるまいが、普遍性に乏しいかもしれない。
「祥」はまた「痒」「翔」「詳」「洋」などと同音になることがあり、「羊」と同部で、やはり仮借字とみることもできる。だがこの場合も、「郡成給祥」を漢語風には読みにくかろう。
これら省文説に対し、「羊」を「未(ひつじ)」とみて、方角とする説もあるらしい。だが両字ともに字画がそれほど変わらないわけで、私には、別字を使う必要があるとは思えない。
そして有力とされている人物説であるが、確かに地元に「羊太夫」の伝承が残っており軽視はできまい。ただ金石の読解は歴史観の根幹をなす作業だから、ロマンや望みが入り込む余地はない。
新たに郡を創設すると同時にこれを「羊」という人物に与えるのであれば、律令の原則に悖るわけだから、公式史料に何らかの形でその名とそれ相当の理由が記されているのではなかろうか。が、そのような痕跡は見当たらない。
仮に「羊」という個人に新成の郡を与えるのであれば、小なりと雖も「羊」は王であるか、少なくとも列侯の一人となるわけだろう。その功績が抜群であるか、あるいは皇族に列すると考えざるを得まい。姓(かばね)すら持たない人物に郡を与えるとすれば、これに代わる野望をもった私人が幾らでも出てくるではないか。
まだよく調べていないが、「羊」を「養」の省文とみる前例があるらしい。よって私の発明ではない。だが、これまでの推論はあくまで私の印象から得たものであって、文責は私にある。「給養」の用例を幾つか見つけたが、またいずれ。