文章の上達
自分の書いた文章を読み返すことがある。気になるものはその都度、まとめて振り返るのは数年に一回ぐらい。そのたびに下手くそだと思い知る。が、文章は上手下手だけでもなかろう。以下はもっぱら私の習熟度をはかっているだけで、普遍性を目指しているのではない。
それほど分量はないけれども、このコラムに結構愛着がある。一つ一つそれなりに完結しており、書いたときの心持ちが浮かぶ。冷静に読むと、主題のはっきりしないもの、論理の晦渋なもの、まとまりのないものなど、冷や汗が出るものばかり。締め切りに追われたものもある。
中には書いた時にそれなりの出来栄えだと感じていても、少し時間がたつだけで、再読に堪えないものがある。
上手であるより、率直に書くことを優先してきた。普段の思索がそのまま出てしまうので、私の事であるから、生半可になるのはやむを得ない。それでもまあ書く以上は、説得力があるようにはしたい。
かつて私は、内容や言葉遣いについて自分が苦しめば苦しむほど完成度があがり、読み手が楽になると考えることがあった。書きたいことが書けているか、うまく伝わっているかを気にかけてきた。幾らか自分でも書けるという錯覚があったからだろう。
コラムは分量に限りがあるので、さほど重厚さは求められない。上達するには、立場をはっきりさせ、枝葉を容赦せずそぎ落とすことが大切らしい。
確かに用語や構成のみならず繋ぎの部分でも、もがけばもがくほど、軽い印象が得られる。文字を根幹から考え抜いた人なら、構成から運筆といった点でも力があり、ちょっとしたものでも格調が出てくる。ところが、私がそのように書けるわけではない。小学もまだ道半ばである。
振り返ってみれば、十年一日、さほど代わり映えがしない。時流に疎いので、テーマを選ぶことからして冴えがない。鈍重な私にとって、フットワークを軽くすることが難儀なのだ。
私が書くものは、私の汗みたいなもので、人生そのものと言える。とすれば、根本にある人生観やら思考癖からは離れられない。どうやら、文章が上達してこなかったのは自分を甘やかしてきたことも一因にあるらしい。
紙に印刷してしまえば、もうそれ以上、手出しができない。ところがネット上では、目の前に置いて、再度料理することもできる。としても、一旦書いたものを修正するのは読者を裏切っている意味もあり、なるだけこの特権を使わないようにしている。やはり、一回きりというのが上達の条件にあるような気がする。
今も頭の中がどんよりしており、またしても指針は出てこなかった。