好事魔多し

「好事魔多し」は、たまには脳裏に浮かぶ用語だが、あまり使ったことがない。縁が薄いとしても、このまま終わるのは癪だ。
おっかなびっくり意味を調べてみると、「良いことはとかく邪魔が入りやすい」ということになっている。読み方は「魔」が「邪魔」のことだから、「好事、魔多し」であって、「好事魔、多し」ではないそうだ。
今回なぜこの句が浮かんだかと言うと、健康そのものと見ていた人物が病に倒れたからである。振り返ってみると、頑健とは言えない私ではあるが、大病にはかからずに済んできた。その私から見ても、病気に縁のなさそうな人物が入院するはめになってしまった。
幸い大ごとにはならず、一週間ほどで退院とあいなり、皆一息つくことができた。ちゃんと節制すれば、再発の可能性は少ないとのこと。これを機会によい方向に向かえば、「禍福はあざなえる縄のごとし」となるのだが。
実はこれだけではなく、孫たちが風邪を引いたり怪我したりなど、なにかと心配事が絶えない。病人が一人出ると、周りがあたふたする。
私の人生に「好事」が多かったのか少なかったのか、考えてみたことがない。この歳まであまりストレスを感じず、好きなように生きてきたことからすれば、好ましいことが多かったのかもしれない。
そうそう、ここらあたりでは、今のところ五時半にチャイムがなる。外で遊ぶ子供たちに帰宅を促す意味がある。
なぜか本日、孫が我が家から遊びに出ていた。チャイムがなってもなかなか帰ってこない。まあいろいろなことがあるから、すぐに帰ってこられないこともあるだろう。十分ほどなら落ち着いて待っていられるが、これを越えると段々落ち着かなくなる。
十五分、二十分となると、微分したように心配の黒雲が漂ってくる。じっと待つことがつらいので、ついつい探しに出てしまう。
子供を信じていないからだと指摘されるかもしれない。が、自然の中では何が起こるか分からない。顔をみるまで、安心できないのだ。
何事もなかったかのように帰ってくればほっとするが、杞憂だったとしても、ついつい一言文句が出てしまう。
身近な者が車の運転をして帰りが遅いときも、不安になり、ふわふわした気分になる。また出先で消防車や救急車が走ると、一瞬にして最悪のことを想像することもある。
よくよく考えてみると、事故や病気など、なんと魔の多いことか。こうなると何だか、好事の続くことが奇跡のように感じてしまう。口うるさい爺になってしまったかもしれない。

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