郡上郡衙(7) -中坪-

茶飲み話になるかどうか。まだ定着していないテーマだが、脳裏から離れないので吐き出してしまうことにした。書くことによって、アイデアを客観化できる意味がある。
既に郡衙の位置として吉田庄四郷のうち、中野郷を抽象してきた。中之保や中野などは中心を意識できる地域だからである。
実を言うと中野郷は、北は小野郷、南は下田郷に挟まれた地であることはほぼ間違いないとしても、その範囲がはっきりしない。さらに庄園時代初期から郡衙設置時期までたどれば、この四郷に縛られない可能性が高い。
そこで注目したのが八幡の街を貫く吉田川の左岸と右岸である。中野が左岸ならば、中坪が右岸にある。
いつ頃から中坪と呼ばれるようになったのか、はっきりとは知らない。が、現在の中坪のみならず尾崎や向山まで含む時代があったことは確かである。私はこれらを含み、更に広い範囲を想定している。ちょっとした論拠を示そう。
「尾壺山(おつぼ)」「尾壺城」の「尾壺」が気にかかる。つまり、「尾崎-中坪」から「尾壺」が生まれたと解せないか。これより、尾崎が中坪に含まれていたことを戦国時代まで遡りたいのである。
これは存外突飛な話ではない。私の住む南町一体は島谷という大地名で呼ばれている。これが、西にあった島方村と東の赤谷村を結びつけた名なのである。つまり「島方-赤谷」から「島谷」が生まれた。
五町(ごちょう)は難解だが、東と南が中坪に接している点が気になるところ。また五町の対岸つまり長良川右岸に、坪佐がある。私は、現状、これを「中坪-佐」と解している。以上二点から、根拠薄弱ながら、五町が中坪に含まれていた可能性を感じている。
小駄良筋は、是本(これもと)や中切(なかぎり)という字がある。中坪がどの時代にどの程度北へ広がっていたのかは不明ながら、是本や中切にそれぞれ薬師如来や口番所があったとされる点から、やはり少なくとも戦国時代辺りまでは遡れるだろう。
中切に関しては、条里制の田畑を区切る「中の切り」や、そこまでいかないとしても「中坪の切り(境界)」であった可能性もある。とすれば上之保や寒水への分岐点である坪谷までは行けないので、また中坪を二つに切ったと解することもできそうだ。中坪がかくの如くだとすれば、中野郷に劣らぬ広さを有していたことになる。
是本につき、「是」が何なのか、皆目見当がついていない。教えを乞いたいと思う。
以上、吉田川を挟んで中野と中坪が向かい合っている状況であるから、この辺りが中心で、郡衙の施設があった可能性が高いのではないか。

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