英雄

戦国時代末期、追い詰められた燕は刺客として荊軻を秦へ送り、後に始皇帝となる政を暗殺しようとする。あと一歩まで迫ったが失敗し、結局、彼は殺されてしまう。今流に言えばテロリストだが、その潔さからか、受け入れられることがある。
今年の3月5日、韓国ソウルで暴漢が駐韓アメリカ大使を刺傷した。いわゆるリッパート大使襲撃事件である。実行犯は「ウリマダン独島守護」代表の金基宗(キム・ギジョン)容疑者で、取り押さえられた時に「今回はテロだ」と叫んでいたらしい。
これには伏線がある。
韓国の新聞報道によると、「金容疑者は韓国政府から様々な支援を受けていた。2010年に日本の重家俊範駐韓大使へ投石し、同席の女性書記官を負傷させた事件に関して有罪判決となった後も、韓国政府はウリマダンの公演に資金を与え、2012年から同14年まで公の施設を無償で貸し出した」という。
判決は懲役二年、執行猶予三年の有罪にとどまり、実刑ではなかった。執行猶予は禁固や公民権剥奪などの刑を受けているが、強制収監などの執行を猶予されている状態をいう。韓国政府が組織を通じてこの執行猶予中の代表へ資金を与え、便宜を図っていたことになる。同政府がどのような論理で彼を優遇したかは伝えられていない。
判決内容について、あれこれ言う立場にはないとしても、執行機関の認識には根底に「反日無罪」という考え方があったとしか考えられない。
彼らの脳裏には、伊藤博文を暗殺した安重根の像があっただろう。韓国では彼を英雄視することが多く、近頃も中国との外交でその名を見ることがあった。
これからすれば、金容疑者を単なる刑法犯にはできない価値観と心情があったのだろう。彼は重家大使への襲撃をテロではないと言ったそうだ。個人の「哲学」や感情を基準にすれば、ありえない話ではない。
そして、今回の事件である。残念ながら、私人がテロリストに敬意を払い、擁護することも少なくない。彼らに憧れて、「愛国」やアナーキーに走ることもありえる。
だが今、世界はテロに苦しみ、何とか対策を立てようとしている時代である。近代国家の体裁を保っている国の政府がテロリストを持ち上げ、またテロを実行した執行猶予中の人物へ便宜を与えてきた。テロリズムを奨励しているかの印象を受ける。
確かに全ての問題を法の下で解決できるわけではない。が、国内であれ国際間であれ、武力を行使せず平和にやっていくには法治しかありえない。長い間、力づくで抑え込むことは不可能なのである。間もなく燕も、そして秦も滅びた。
仮に私人がテロリストを英雄視するとしても、公機関はダブルスタンダードを避け、もっぱら法治を旨とする他なかろう。互いに子子孫孫まで平和につき合おうではないか。

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