小字(こあざ)

郡上郡衙のシリーズ(9)で、大洪水により有坂が分断され、長良川本流が西方へ移動したと推定した。その時には地形やら、村名が分断されていることを根拠にした。とすれば、私が第一候補にしていた現在の中野地区が平安時代には河原だったことになる。重要なので、もう少し検討してみよう。
長瀧寺の史料で、中世に本流の洪水が幾つか記録されている。だが、吉田川がはっきりせず、突き合わせる作業ができない。そこで別の角度から傍証するのが今回の狙いである。
歴史学に地名を使うのは準備が大変で、説得力を欠くことが多い。その地名がいつ頃付けられたか確認するのが難しいからである。だが、史料が豊かでない地方史では、そんな贅沢なことは言っておれない。使えそうなものは全て動員せざるを得ない。
流路が変わったと思われる地区は、現在の大正町、新栄町、城南町などである。これらの小字をみると、東西に東から西へ「字古川」、「字古川尻(ふるかわじり)」、「字〆切(しめきり)」となっている。私はこの用語と順序に注目している。素直に解すれば、古川は文字通りかつての流路、古川尻はその行きつく先、〆切はかつての長良川との合流点を示すだろう。
その南側は東から「字高砂町」、「字吉田町」となっている。町名なので、古川が吉田川の流路であった時期に幾分かすでに街並みが出来ていたとも想像できる。が、島谷用水の原形がつくられた17世紀に集落ができたと推定できるので、町名はこの後についた可能性が高いかもしれない。
とは言え、「高砂」及び「吉田」の字名自身は、共に旧美並村にあるし、吉田川の上流に吉田郷があったことから、十四五世紀あたりの庄園代まで遡れる可能性はある。
その北側は「字舟渡島」となっている。「字古川」「字古川尻」「字〆切」が一連の川筋を示しているとすれば、古川から島まで行くと、そこに船着き場があったことになる。これが交通の要となっており、長良川本流を渡って有坂へ舟便があったことは間違いあるまい。
問題は「舟渡-島」となっている点である。これが実際に川中の島とすれば、吉田川がこの島の南北で分流していたことになる。この場合、古川から島まで渡ると、有坂のみならず尾崎や五町へも舟便が使えたことになり、その重要性が伝わってくる。
ただし郡上で「島」は、吉田川筋の市島など実際に島だったとは考えにくい地名としても使われるので、一筋縄にはいかない。
このあたりは庄園時代まで遡れば中野郷の一部だったとしても、郷帳からすれば江戸初期から中期には「島方村」だったのではないか。「島方村」の島が「舟渡島」のそれと関連するのかどうか。

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