牛と馬(4)

前回は郡上における馬文化圏の北境を探って寒水までたどり着いた。天気の良い日に、寒水を一回りしてみてはいかがかな。間違いなく気持ちのよい地区ですぞ。
寒水は吉田川を中心にした交通体系では辺境に見えるが、近世まで遡ると、交通の要衝であった。
掛踊りは白鳥の牛道ないし大和の母袋から伝わったようであるし、古道、神路とは嫁が行き来した。そして小駄良を経由して八幡へ炭や野菜などを運んだし、東は畑佐、小川から和良筋へ出られる。後者は気良庄の影響があったと考えられ、寒水及び気良は山田庄と一つの境界をなしていたようにみえる。坂本から飛騨方面へ出られることも忘れられない。寒水はまた白鳥、大和を超えて越前との交流もあり、けっこう昔話も残っている。
ここらあたりで一息入れて、ゆっくりコーヒーでも飲みながら、明宝の地図を広げてみると整理できて面白いかもしれない。
『郡上領留記』で寒水は安永二年(1773年)に異名ながら「轆轤挽(ろくろひき)村」とされており、木地師や木挽(こびき)を生業にする家が多かったかもしれない。奥住の旧漆原村の名などからして、また越前の塗師が近くを往来しただろう。
口長尾(くちなご)や奥長尾(おくなご)の鉱山技師は越前から来たようだし、畑佐鉱山でも労働者の大半は越前から来ていたと云う。
さて牛馬につき、寒水は宝暦四年(1754年)の段階で馬19-牛2になっており、牛は少なくともタブーではなかった。因みに明治五年(1872年)では馬8-牛0で、いずれも減っている。
気良は、西気良村も東気良村も、宝暦四年の段階で牛は全くいない。小川村、口長尾村及び奥長尾村も同じである。
これらに対し、畑佐村は宝暦九年(1759年)で馬8-牛24、坂本村は宝暦四年に馬1-牛21で牛を中心に飼っている。
これらほどでないとしても、奥住の旧鎌辺村は明治五年に馬19-牛8、旧漆原村では馬16-牛3となっている。いずれも古くは牛の割合がこれより高かった印象がある。これらをどう見るか。旧明方の殆どすべての村が白山神社を擁しており、白山信仰の圏内だっただろう。もと牛を中心に飼育した地区と考えられる。
平安中期以後の庄園時代に山田庄と気良庄に分断され、寒水と奥住地区の北方が山田庄へ、小川から二間手を経由して長尾村及び気良が気良庄へ編入されたのではあるまいか。これらはあくまで原則であって、畑佐はどちらの庄園へも入り口になっていただろうし、近世になって気良の人材や資本が寒水へ入ってきても、大勢には影響しなかったように思われる。

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