逆説
若い時からなるべくこのテーマを避けてきた。学生の頃すでに理屈をこねることに嫌気をさしていたように思う。
よほど恵まれた者を除けば、誰しも青年時代には権力や権威に歯向かい、不条理を嘆く。一般に認められた道理をそのまま受け入れることができず悶々とする。何とかそのほころびを見つけることで自分の存在を実感したいとでも言えばよいか。じっと腰を下ろして考えてみれば、確かに今でも血がたぎるテーマが残っている。
頭のどこかに「負けてはならじ」のフレーズがあった。議論に勝ち負けがあることを前提していたのだろうか。癖になるほど「しかし」、「でも」、「だとしても」などを使っていた。弁証法も使い方を間違えると凶器になる。
あくまで論理は自分の考えを組み立てるのに使うのであって、人をへこますためではない。批判の矛先はまず自分自身に向けるのが常道である。思い上がっている自分が情けなかった。
修練を積んでどれほど人を批判するのが上手でも、それ自身には何の生産性もない。たまたまうまく組み立てられて、相手をねじ伏せることができても、単に一過性の気休めに過ぎない。まして相手をやっつけるのが目的だったり、自分のつまらない自負心を守るための議論は愚かである。
ただここのところ、この逆説の巧みさが捨てがたいと思えるようになった。主として二面あるだろう。一つは真理と思えるものに矛盾がひそむこと、一つは破綻した論理にも見るべきものが潜んでいることである。
「禍福はあざなえる縄のごとし」という。人は生き物である。幸福であっても、いつ禍が起こるかわからない。また禍が起こっているとしても、そうは続かない。縄のように綺麗でないとしても、大まかにはいけてる感じがする。
「急がば回れ」は、いつも真理とみるのは苦しそうだが、時には代えがたい教訓になる。
私はよく考えて走り出すというよりは、まずは走り出してから考える質だ。急ぎに急いできたが、寄り道が多すぎて、空回りしてきたきらいがある。
近ごろ気に入ってのは、勉強が進めば進むほど疑問が生まれ、如何に自分が無知なのかを痛感するというものだ。つまるところ、人は知りたいという欲があればあるほど無知に気づくのだろうか。
近ごろ金言や諺を多用すると嫌われる。古臭い言い回しより、軽い用語を好む若者が多いかもしれない。動機はなんでもよろしい。単に試験の範囲にあるからとか、テレビのクイズで出てくるからでも構わない。若者がパラドックスを使いこなしているのはかっこいいですぞ。