仕切
前回、旧家の収蔵品に文書が含まれることは触れておいた。その中に「御茶賣仕切」という文書が十枚ほどあった。手慣れた草書体の原文を見た時は何とかなりそうな気がしたが、あまりに上手なのですぐには歯が立たなかった。
同類の文書があるのでじっくり比較検討すればそれなりに読めるようになるだろうが、時間がかかりそうな気がする。
商売に疎い私は、まず「仕切」という用語がよく分からなかった。今回はこれを取り上げてみたい。仕切りは、現代でも使われる用語で、商品の明細と請求の伝票が一緒になった文書である。ただし、この文書ではお茶の売り手が自分で値段を決めて請求額を書いているとは思えないので、お茶を買い付けに来た業者と相談して価格を決めていただろう。お茶の重量と価格が銀の重さで示されているので、これが仕切り価格ということになる。
仕切りは売り手側からすれば納品書と請求書が一体になった「売り仕切り」、買い手側からすれば受領書にあたる「買い仕切り」になるだろう。文書の名目が「賣仕切」になっているので、売り手側が用意した文書に買い手が仕切り価格を書いて署名し、逆に「買い仕切り」には売り手が価格を承認したことを示す。そう言えば「売り仕切り」の端に割り印が押してあった。
この推測は「力士が仕切り線をはさんで立ち合う」姿を想定している。仕切り価格までたどり着けば、お茶と「仕切り金(がね)」を交換するばかりである。ただし「金(かね)」と言っても取引には主として銀が使われたので、「仕切り銀」とも呼ばれる。いずれも総額の意味をもつ。そう言えば、文書と共に銀を量る小さな天秤も添えられていた。
支払いが終われば、生産者が仲介者に歩合を渡して「仕切り売買」が完了し、決算ができる。この場合仲介者は、文字の読み書きができる人だっただろう。この文書を出した家は庄屋をやっていたことがあるようだ。
私はまだ「取り仕切る」などの意味で使われる「仕切る」がはっきり掴めていない。何となくだが、生産者と買い手を仲介する人物が経験を積み、金を用立てるなどもできて、取引全体をリードできるような状況を想定している。
江戸時代後期の那比は家数、馬数、人口のいずれをとっても大村だった。これを支える産業が馬のみとは考えにくい。私はお茶などの換金作物を調べていた矢先だったので、渡りに舟で喜んでいる。
文面からお茶の業者が越前からタラガ峠を越えて那比へも来ていたことはほぼ確かである。懸案となっている餅穴の解釈にも影響しそうだ。
仕切りはこの他「衝立てで仕切りをする」などでも使われるが、今のところ古い用例が見当たらない。私自身について言うと、鍋を囲んで仕切るような力はない。