金と女

人の欲は十人十色である。中でも金と女への欲は、古今東西多くの人に通じると考えられてきた。私とて例外ではない。道学者でもあるまいし、欲を煩悩として排除するつもりはない。
様々な欲は人が抜け目なく生きていく動機になるし、目標を達成しようとするエネルギーにもなる。手が届きそうもないものへの欲なら、遠大な目標にもなるし、結果として儚い夢になることもある。例え幻に終わるとしても、欲を持たないより溌溂とした人生が送れるのではあるまいか。
人は生き物だから食欲は、強弱の違いはあるにしても、誰にでも広く通じるだろう。食は命を育み、維持するのに欠かせない。若者なら食欲旺盛であることは望ましいが、中年以後までこの傾向が続くとすれば問題が起きるかもしれない。
酒への欲は、愛してやまない理由がさまざまだとしても、現代では食に通じるかもしれない。
また男なら女を、女なら男を思い浮かべる。近ごろでは女性、男性という用語が使われることが多く、女だとか男だとかを使うのは流行らないかもしれない。
恋愛にはプラトニックなものを含むので、すべて結び付けるのも野暮だが、性欲と関連することは否定できまい。主観はどうあれ、子孫を得ることに関連する。酒食や異性への欲は誰にでも分かりやすい。
他方、出世欲や支配欲は社会で目覚ましい活躍をしたいというようなもので、名誉欲やら周りの評判を気にすることなどもこの中に入るかもしれない。
金への執着は定義が難しい。これを衣食住への対価としてみれば、生き物として個体の用を果たしている。出世欲や名誉欲など人間関係のつなぎとして使うなら、社会における働きがある。ならば、金銭欲はどちらにも通じることになる。
人の欲にも個人史が色濃く反映する。青年時代なら、食や性への欲が強いのは当然で、知識欲やら出世欲など未来へ向けたものも思い浮かぶ。
壮年期なら、一定程度これらを手に入れたとすると、一歩進んで支配欲というようなものが強まる。
老境に入れば体力も知力も落ちる傾向があり、燃えるような欲がなくなって、いろいろな局面で諦念が生まれる。できる事とできない事が分かってくるので、遠い将来を見越した欲はなくなってくる。
ただこの歳になっても、すべての人が聖人君子になれるわけではない。金や女への欲は、酒食を含め、棺桶へ入るまで残り火が燃え続けるのを健全とする。
でもまあほどほどに。

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