猿と狒々(ひひ)

それぞれ人の立場により物は違って見える。それが勝者と敗者に分かれる場合は極端になる。
まず脳裏をよぎるのは、九頭竜とヤマタノオロチである。両者とも実際にいるとは思えないので、想像上の生き物である。前者は神で、この辺りでも九頭宮として知られている。後者は退治される。俄かに同一と証明できないとしても、両者の姿形が似ていることは否定できまい。
人身御供を求めたヤマタノオロチは、スサノオノミコトの策略におち、酒を飲まされた上で屠られてしまう。オロチは恐ろしいことは恐ろしいが、どこか揶揄されているところがあるだろう。
これは牛頭天王と牛鬼との関係でも伺える。高賀神社における牛頭は三神の一つで、重要な位置を占めている。牛頭信仰がいつ頃入ってきたのかはよく分からないが、大矢田神社からとすれば、平安末期には遡れそうだ。新宮の縁起によると、牛鬼は高光に退治される。
牛頭と牛鬼は全く異なる待遇を受けている。牛頭天王が勝者で、牛鬼が敗者だ。牛鬼は打ちのめされ、以後牛自体がタブーとして六社の谷戸から入れない時代があった。同縁起に天皇が登場するのは尋常でなく、これには公機関が介在している気がしてならない。
前々回だったか、高賀山に「猿虎蛇」という怪物を鬼として書いた。高賀神社の境内にある像を見る限り、狒々を思い起こさせる。この「猿」は恐ろしい形相をしており、この世のものとは思えない。一見の価値がある。
これに関連するのかしないのか、下之保の祖師野八幡神社に伝わる鬼は狒々ということになっている。こいつは恐ろしいやつで、やはり毎年人身御供を求めていた。
この地を訪れていた悪源太義平がこれを打ち、ほうほうの態で逃れ乙原の岩蔭に隠れていたところを引きずり出して刺し殺したことになっている。
猿虎蛇にしても狒々にしても打ち取られる側であって、最後には退治されてしまう。
これに比して、この地における猿は伊勢の猿田彦神であったり、猿丸太夫になったりする。これらからすると、猿は狒々を打ち取る側に立っているだろう。
これらの話はいずれも勝者と敗者に分かれていて、優勢だった者たちの都合がよいように作られている。それぞれ血なまぐさいとしても、退治されるのがヤマタノオロチ、牛鬼、狒々だから、どれも架空の生き物に設えられており、百年戦争にならないよう巧まれているだろう。
鵺は何を原形にしているのか明らかでないが、縁起の中で打たれる牛鬼の霊とも読める。雉やホトトギスが嫌われているので、これに関連するかもしれない。

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