故郷は遠きにありて

今年も年末年始に孫と二人で故郷へ旅をした。彼は痩せっぽちだが、すでに私の身長を越して、大男になりかけている。私が彼の年頃には、爺さんはおろか父親もいなかったので、若者が年寄りと旅をする感覚はよく分からない。爺さんの立場からすれば、これから何回もあるとは思えないので、どんなことがあっても後まで印象に残るような気がする。
彼は少々背伸びするものの、それなりに落ち着いてものを言うことがあるし、まさに成長途中の少年と言ってよかろう。
今回は二回目なので、岐阜まで出るにしても、米原で乗り換えるにしてもまずまず順調だった。むしろ順調すぎて、楽しみにしていた米原駅のソバが食えなかったほどである。
米原発の新快速で明石駅に着いたのは三時前後。気持ちに余裕があったからか、乗り換えを延ばして明石の魚の棚を歩いてきた。大晦日ということもあり、大勢の買い物客が出て、歩くのも大変だった。状況が掴めていない田舎者そのものだった。土産物は郡上で準備していたので、何軒か味見をしながら、冷やかしてきただけである。
私鉄に乗り換え、目的の駅についたのは夕方。宿にする場所に荷物を置いてさっそく実家へ行ったものの、鍵がかかって中へ入れない。そのまますごすご宿に戻って、一旦腰を下ろした。心の中に不安の黒雲がもくもく上がってくるのを感じる。
次兄の家を訪ねて着いたことを知らせると、夫婦そろって宿まで来てくれ、ご馳走をつくってくれた。また旧知の夫婦を呼び、賑やかな席になったのはなによりだった。
翌日穏やかに元日を迎えて再度実家を訪ねても、やっぱり鍵がかかったまま応答がない。中に人の気配があるようなので留守ではなさそうだ。
ここで心折れてしまった。土産を近くにいる姪のところへ持って行き、ドアノブにぶら下げたまま、会わずに宿まで戻る。
今回は時間があれば旧友に会うつもりだったので、電話して約束した場所へ迎えに来てもらい、彼の家へ行くことができた。元日に連絡したにもかかわらず、歓迎してくれたのは望外の喜びだった。親子四人仲良く暮らしている様子で、宿願が果たせたように思えた。
それにしても、何だか心が晴れない。若い時なら悲しんでいただろう。今となってはそれほど動揺しなかったが、一気に距離が遠くなったと感じた。故郷を離れて半世紀。親兄弟のみならず親戚の連中も大勢亡くなり、数少ない身内とも心が通じなくなっていくのは仕方がないかもしれない。
若い時なら孤独感にさいなまれ、誰かに何らかの愚痴を言ったかもしれない。が、そんなこともできない。楽しさと共に寂しさを感じながら帰途についた。

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