文政年間の赤谷村

窮すれば通ず。私の住む地区は旧役場の裏手にあたり、近頃は表も裏も観光客が行き来するところだ。ところが江戸時代は相当寂しい土地だったらしく、はっきりした地名が分からない。
八幡を貫く吉田川は北町と南町に分ける。ここら辺りは南町にあたり、島谷という地名である。島谷は島谷用水で知られる。「島谷」という地名は島方村と赤谷村を合併したときに、島方の「島」と赤谷の「谷」を合わせて名付けられたことになっている。従って島谷地区はかなり広い地域にわたっており、番地を付けただけでは分かりにくい。
かようなわけで、愛宕町や朝日町など通称地名が便利である。地元の人は、この通称で凡その場所が分かるようになっている。
私が住む地区は、旧赤谷村に属していた。そこまでは分かるが、伝承を辿ってみても明治から江戸時代までさかのぼることが難しい。そこで史料を探していると、幸いにも旧赤谷村にあたる川原町のある旧家で見つかった。長期にわたって借りられることになったのは僥倖である。
今回は「文政十丁亥十一月 返禮帳」というものから、赤谷地区の地名を振り返ってみたい。「返禮帳」というのは、通夜や葬式にいただいた香料とその返礼などの記録である。一般に町人には姓がなかったので、名のみでは辿ることが中々難しく、細かな検証がまだ出来ていない。というような訳で、まずは赤谷の大まかな地名を俎上に載せてみる。
赤谷村に関し、「町内中」として十一人、「丁内」は護国寺、慈恩寺を含めて十五人、「名廣」は十人、「赤谷」は五十二人の名前が載っている。必ず一軒に一人とは限らないし、旧家とはいえ全ての家と付合いをしていたとは限らないので、この軒数を根拠にした議論は危うい。それでも、凡その傾向は分かる。
この中で「町内中」と「丁内」をどう読むか。「丁内」は、「名廣」を今の乙姫町とすると、川原町にあたりそうである。ただし、慈恩寺含む点が不審といえば不審。というのは、今同寺は乙姫と付合いするからだ。
「赤谷」の五十二人は意外に多い。江戸時代の中期から後期にかけて、もとあった武家屋敷のみならず町人や職人が多数住むようになったのだろうか。とすれば、赤谷は今の愛宕町のほぼ全域にあたると解せるかもしれない。
とすれば「町内中」は各町内から選んだとも考えられるが、返礼について差がないところから、地名を意識しているようにも解せる。川原町にゆるくつながる地区つまりかつての「カハラ」に、ぼちぼち家が建ち始め、まばらに集落ができていたのかもしれない。この解釈なら「町内中」は、「四国」「新建て」「二階建て」の朝日町ないし常磐町を中心とするかもしれない。

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