「自」について

自は主として二つの意味で使われる。自分、自己なら「自(みずか)ら」、自然なら「自(おの)ずから」を表す。
個人が勉強やらスポーツを通じて修練を積み、自らの精神と肉体をコントロールしようとすることは、どれほど可能なのかはっきりしないけれども、まあ健全なことと言ってよかろう。
人は仕事をして金を稼ぎ、自立し始める。裸一貫で生まれるわけだから、金や銀のスプーンを咥えて生まれた者を除けば、貧乏から始まるのは至極健全だ。金を持つ人が持たない人を軽く扱う風潮があるとすれば、金持ちと言えども一人前とは言えまい。
こんなことぐらいで、人を量ってはいけない。
そんなに尊敬される必要はないとしても、馬鹿にされて生きるのはあまり面白くない。少しは社会に貢献して、意見を聞いてもらえるようになるのが、楽しく生きるコツである。
自立しようと急いではいけない。苦労は人としての幅を広げ、他者への思いやりが深くなることがあるが、ひどく苦労するのは決してお薦めではない。深いところで傷が疼き続けるのはやりきれない。
好きな事、楽しい事を続けるのは、多少苦労しても、その難しさが喜びを大きくするし達成感も得られる。
この歳になると今の自分は過去の集積であり、全く言い訳が効かないし、何かで繕うこともできない。今までの営為が自ずから結果として今目の前にあるわけだ。
残念ながら私は年を取っても、何かを達成できたわけではないし、面白い話が湧いてくることもない。
これから踏ん張って変わったことをしても、残念ながら人としての奥行きを持ち、人らしい陰影がついてくるとも思えない。
「自」は、もと「鼻」の象形字だったらしい。『説文』で「自」は「自 鼻也 象鼻形」(四篇上126)となっており、まさにそのような説解になっている。ところが「自」が「自ずから」や「自(より)」の用例が増えて元の意味で使われないようになると、不便なので「鼻」という会意字が生まれたようである。
今の人はどう知らないけれども、我々の世代や私が生まれ育った地域では、鼻を指さして自分を示すことがあった。これが偶然なのか、古くからの伝統を引いているのかよく分からない。
近頃、自分が運良く生き延びているだけで、「生かされている」感覚がもたげてきている。恥ずかしながら、私は結構前から娘にお年玉をもらっている。同年代の人に笑われそうだが、事実である。

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