知行所と陣屋

先日の温泉旅行は楽しかった。道中和気あいあいとした雰囲気も良かったし、色々な遺跡や神社に立ち寄ったのは、行を共にした友人達の奥深さを感じさせた。
やや温めの湯に長く浸かり、あれこれ話が繋がるのは格別だ。更に、湯上りのビールも旨い。夕食は中々だったし、冬の長い夜を揃ってゲームに興じる。今思い出しても心温まる。
和良に入って最初に立ち寄ったのが旧下洞(しもぼら)村の陣屋である。真名洞(まなぼら)をしばらく遡ると左側の山麓にあり、ちゃんと整備されていた。道路沿いの石組みは古くからのものも一部あったように思われる。広さは全体として四反から五反あたりで、二段になっている。米や炭の倉は上にあったようだ。役所を建てるにも十分な広さがある。穀倉地帯と言ってよい下沢村や宮代村を避け、防禦の容易な谷筋を選んだのかもしれない。
残念ながら、和良遠藤千石を構成する六箇村をこの下洞陣屋だけで治めたのかどうか知らない。下沢村、下洞村、宮代村、戸川村、祖師野村、乙原村の六村で、法師丸村の一部を含んでいたという説もある。
実をいうと、乙原村に下洞陣屋を上回る規模の施設があったらしい。現在でも一部道路網が残っており、広大なものである。これも立ち寄って確かめてきた。
「代官屋敷があった」という伝承があるものの、旗本の知行地なので、何だか腑に落ちない。或いは和良遠藤へ分知する以前に天領であって、高山代官所の管轄になっていた時期があるのかもしれない。
幕末に至っても相当な規模の倉が三つあったという証言もあるし、巡検使の宿泊施設もあったようなので、下洞陣屋が幕末まで存続していたとすれば、乙原村の存在が微妙である。
或いは六箇村のうち下洞陣屋が下沢村、下洞村、宮代村を、乙原村にあった何らかの役所が戸川村、祖師野村、乙原村の三か村を管轄したのかもしれない。二つのグループを挟んで方須村や土京村があり、これらは長良川沿いの西乙原に陣屋を置く乙原遠藤の知行地であった。何かと差し障りがあったかもしれない。
知行というのは幕府や大名が一万石以下の家臣に分与した土地で、この場合は和良遠藤の知行地が千石であったという意味である。
書くスペースが無くなってきた。翌日、温泉のある馬瀬川筋を遡って「貴船神社」へ寄ってきた。山の中にある神社なのに「貴船」という名がついているのが面白いということで訪問することに合意した。趣向の分かる連中である。
詳しく調べたわけでないけれども、由緒書には悪源太義平の話が載っていた。祖師野八幡神社と同じ系統だ。私の印象では、木地師に関連しそうな気がしている。

前の記事

充実

次の記事

二進も三進も