やる気のからくり
なにせ学校が休講になっており、時間を持て余している子がいるかもしれない。家でグダグダして勉強やスポーツをやる気が起きないという話も聞こえてくる。この時ばかりスマホゲームに明け暮れても飽きが来る。だが家に閉じこもって恍惚として生きているのは何も子供に限らない。
人はやっていることが進行中なら、それについてやる気があるとかないとかの話にならない。実際にやっているからである。しからば、やる気というのは今やっていないことをやるかどうかという場面で出る言葉になる。
「やる気スイッチ」やら「やる気ボタン」があって、押せばやる気が出てくるのなら有難いが、残念ながらそんなに上手くいかない。
実際にはやる気がどんなものかよく分からないが、「やる気がない」なら何となく分かる。
面白くもないし興味も湧いてこないようなことに張り切って取り組むことはまずありえない。やらねばならない事であっても、できるだけ後回しにしたい。気力が湧いてこないのである。これならリアリティーを感じられる。
出来ればライフスタイルにあった楽しい仕事をするのが安穏だ。だが場合によっては、思うようにいかないこともある。
別の目的があって、何らかの欲を満たすためなら話は別だ。生活するにはどうしても金が要る。欲がエンジンになって毎日仕事する。こうなればやる気を出さざるを得ない。多くの人が経験することではなかろうか。
例え面白い事とは思えなくとも、別の楽しみがあれば、人はしぶしぶでも行動するわけだ。決して非難されるべきことではなく、むしろ健全な動機と言ってよかろう。
やる気はあるけれども、今はその気にならないというのはどうか。私は誰であってもこの種の「やる気がある」を信じていない。幾つかの条件が整えばようやく乗り出すというような言い分のようにみえる。つまるところ、前提がきれいに満たされた時にやると意味だろう。これでは今すぐどうこうと言うことはない。早い話、切羽詰まってどうしてもやらねばならなくなって重い腰を上げることにしかならない。
やる気を起こす方法がないわけではない。飲む気のない牛をいくら水辺へ連れて行っても水を飲ますことはできない。どうしても牛が飲みたくなる状況を作ればよい。
慌てずしばらく待つというのもあるし、しっかり運動させて飲みたくなる状況をつくることも考えられる。
人は動物であるから、行動すれば何らかの楽しみを見つける。じっと籠り続けることは生理に反している。少しづつ何かをやり始めるのがこつである。やる気は何かをやっているうちにしか起きないのだ。