やぶれ傘

さすがに雨の国、傘の種類も多い。滅多に興味を引くことはないが、岐阜の和傘を思い浮かべることはある。たまに地元のメディアが取り上げるので、職人が丁寧に仕上げていく様子が脳裏に残っている。だが、ここで取り上げるのはどこにでもありそうなもので、相当使い古してきたものである。
今年の梅雨は長雨で、野菜が駄目になったり、出来が今一だったりしたそうな。そしてここのところの秋雨前線による雨である。
私は家から出る際に雨が降っていればありふれた傘をさすが、まだ何処もいたんでないものを使っている。
ところが仕事帰りに降っている時は置き傘を使うよりない。まだましな小さ目のものと、骨に近いところが破れている大き目のものがある。
なぜか破れ傘の方を使う。雨がきついと膝から下が濡れ放題になってしまうので大きな傘の方へ手が行く。仕事帰りが夜中なので誰の目を気にすることもない。ところが近頃破れが大きくなっているようで、雨が漏れてくる。破れ目を横にしたり、後ろに回したりするがしっくりこない。そろそろお役御免にして捨ててしまえばよいのに、染みついた貧乏性というやつか、まだ捨てずに使っている。
よくよく考えてみれば、私の人生はこの破れ傘にそっくりだ。いや、それにすら及ばないかもしれない。
生きているうちに何とかなると思い気楽に始めたライフワークが、時間が経つにつれてますます目途が立たなくなってしまった。はるか遠くにゴールが見えたように感じていたのに、これすら幻だったことが分かる。
やればやるほど自分の立ち位置が分からなくなってしまう。まさに泥沼の中をもがいているのが実感である。
不思議なもので、終末が迫ってくると、自分の存在を針小棒大に考えてしまう傾向があるようだ。愚かにも、自分を重要人物だと考えてもらいたいなどと空想してしまう。
この歳まで生きてこれたのが望外の結果なのに、生きているのは当たり前で、思うままにならないのが不満というわけだ。
今回、自分の人生を破れ傘に例えたことで、何だかざわついていた心が静まっていくのを感じる。肩の荷がふっと軽くなっていくようだ。
この間友人にこの話をしたところ、即座に同意を得た。晩年の挫折感は存外私だけではないらしい。まあ、私が何らかの成果を出さねばならないわけでもないし、だいそれた事を望まなければ気楽なものだ。
ただ破れ傘ならまだ何とか雨除けの役に立つから、私の場合、自分をこれに例えたのは思い上がりだったかもしれない。

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