ほぼ十六年

このコラムを掲載するサイトが休止するそうな。今月は通常通りだが、十一月から来年の九月まで休みで、それから再構築するという。OSサポートとセキュリティーの問題だそうだ。なぜそれほど時間がかかるのかよく分からないし、私のモチベーションが続くのかなという不安が起こる。
私がこの欄を担当するようになって十六年ほど経つ。テーマにしても書き方にしても全く制約を受けず、好きなようにやれたのが続けられた要因になっている。数にして800本以上になった。
この間、文章が上達したわけでもないし、ものの見方が成熟したということもない。これを読んでいただいた方にただただ申し訳ない思いだ。
また、さほど面白いわけでも商業価値があるわけでもないのに辛抱強く使っていただいたサイトにも感謝している。
これを引き受けた時に、心に決めたことがあった。
力が入り過ぎないようにすることもその一つで、大上段に振りかぶって政治やら経済を論ずることはなかったし、ややこしい哲学を取り上げることもしてこなかった。私は批判や批評が苦手で、理詰めで考えることが上手でない。また、なるべく重箱の隅をつつくようなテーマも手法も避けてきた。
まあそれにしても、普段考えていることが出てしまうのは避けられない。読み手のことが常に頭にあるわけでもないし、往々にして何かの拍子にボロが出てしまうことがあった。
取り組んでいる音韻論はテーマにすることが無かったと思う。私はこれを最後の砦にしてきた。これについてはまずまずだったのではないか。
書き始めた時には元気があり過ぎて、思わずシリーズ化してしまったものが結構あり、興味を持たない人には退屈な思いをさせてしまった。
込み入った情報を自分なりに整理したくて書いたものもあるし、まだ熟さない仮説を織り交ぜて書くなど、自分本位の文章が多かった。読み手のことがほとんど念頭になかったためである。
取り上げるテーマにしてもその時々に私が興味をそそるものにしてきたし、自分の意見を言いたいばかりで、誰かのために書いたということは少なかった。もともとスタートからボタンを掛け違えていたのである。
なるだけ肩の凝らない書き方を心掛けてきた。とすれば私の力量では点描にならざるを得ない。切り口の鋭さがコラムの命なら沈思黙考が必須なのに、気楽に書いて十分な推敲をしてこなかった。
こうやって思い返すと冷や汗が流れるばかり。

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