達磨

教科書に「DARUMA」という単語がヒンドゥー語に由来すると書いてあるのを見て、「これはない」と言い放つ中学生。「だるまさんが転んだ」「だるま人形」などを思い浮かべたのだろう。日頃馴染みあるものが、はるか遠くに淵源を持つなどとなかなか想像できない。

更に彼は八幡にある「達磨(だるま)飯店」という飲食店を、「たつま飯店」と呼んでいたらしい。何でも彼の周りに「〇〇ま」という名前の知り合いがいるので、てっきり「たつま」という個人名がついていると理解したそうな。これまた身近にあるものから外にあるものを理解しようとするわけだから至極まっとうな方法で、批判される筋合いはない。

私とて達磨大師について知っているとは言えない。私が書いたところで嘘くさい話にしかならないが、少しばかりおさらいをしておく。「菩提達磨<bodhi dharma>」は中国禅宗の開祖とされるインド人仏教僧である。「ダルマ」はヒンドゥー語というよりは、サンスクリットの「法」という語に由来するという方がピッタリする

本邦においても彼の影響は甚大で、武士道もまた「禅」を背景にしているだろうし、今でも精神生活の一翼を担っていると考えてよいかも知れない。面壁九年の話が真実なのかどうか知らないが、彼がひたすら座禅したことは間違いあるまい。そのために足が腐って歩けなくなったという伝承から、玩具としての「だるま」が生まれたのだろう。彼に対する敬意がこれに込められていることは、「七転び八起き」を連想したり、選挙事務所に必ず大きなダルマ人形が置かれ目に墨を入れたりするなどから明らかである。

かの中学生が「ダルマ」の由来を日本語と考えたのも無理はない。「だるま」がそれ程日常生活になじんでいるわけである。また彼が「たつま」と読んだことも大そう興味深い。振り返ってみると、私にしてもこの種の勘違いが多い。

浮世は分からないことだらけだ。知っているとか、分かっていると感じていることがあるとしても、一寸先は闇である。目新しいことが出てくるたびに戸惑って五里霧中になる。こうなると藁をも掴みたい気分になるが、ごくわずか知っていることを基にして一つ一つ確かめて行く他ない。こうやって少しずつ世界を広げてきた。こう言うと、しっかりしているように聞こえるかもしれないが、まるで手ごたえのないことも多い。この歳になっても何ら彼と変わらない。愚かであること限りないが、絶望しているわけでもない。これがわたしの日常である。彼を揶揄する気は毛頭ない。                                              髭じいさん

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