字絵図(あざえず)

「図」が「ず」でしか変換しないのでストレスとなる。四つ仮名がここまで退化したので「えず」で統一してもよいと言うのか。現代において「図」は「づ」だと強く主張できないとしても、「えず」「えづ」どちらでも良いようにしてはどうか。

近ごろ字絵図を眺めながらあちこち散策している。私が住んでいる地区を含む旧赤谷村の小字を確認するためである。これだけでも結構難しい。

若い人なら喜んで海や川に出かけるとしても、年寄りは一年中で最も暑い季節ということで外出を控えている人が多いと思う。私はこれと言って急ぐ理由もないのに、熱中症になる危険を冒してうろうろ徘徊している。大きな麦わら帽子をかぶり、首にタオルを巻いて狭い路地を廻る。

もはや長ズボンは暑苦しいので、恥ずかしながら長めの短パンをはき、水陸両用のスリッパを擦りながら歩く。涼しそうなところがあれば立ち止まり、腰を下ろして何やら字絵図を見ながら考え事をする。今年はなぜか島谷用水や吉田川へ降りるコースにならないので、スリッパを履いたまま水へ入ることはない。

こう見えても頭の中は枯野を駆け巡っている。旧赤谷村は、東は名広川(乙姫川)、西は愛宕神社を限りとし、北は吉田川、南は東殿山の尾根筋に囲まれている。時代によって多少の出入りはあっても、恐らくこの境界が長く続いてきたのではあるまいか。

赤谷村と言っても一部が八幡城下に入っており、河原町やら赤谷町といった街道筋の集落もあった。近ごろ気になっているのは「寺ケ市」と「大街道下」という小字である。

「寺ケ市」には慈恩寺という大きな寺あるので、まずはこれに関連するのかなと考えていたが、どうやらそうではないらしい。寺の敷地には稲荷様だったかの祠があり、室町時代まで遡れるそうだ。室町と言えば門徒が一気に勢力を伸ばした時期で、郡上においては天台から転宗した寺が多かった。何とかこの天台宗まで遡れないかと思案中である。

「大街道下」は何度考えても腑に落ちない。それらしき道の痕跡がないとも言えないが、もはや寸断されている。例え繋がっていたとしても文字通りの「大街道下」は大袈裟な気がするし、愛宕の歩岐で通行が難しい。今の愛宕町の通りは中愛宕から上を中道と言ったらしい。これが新しいとすれば、大街道がそれ以前の街道であった可能性もあるが、安定した通路とは思えない。

と言うような訳で、「大街道」を「大-街道」とみて、「街道」を「カイドウ」から「カイド」「カイト」へ遡ってみたい。とすれば垣内の残存地名となる。赤谷の吉田川に近い地区は土手を高くする前は河原であったらしく、我が家でも便所を水洗に直した際、大きな丸い河原石が何個も出てきた。八幡小学校あたりから続く地形なので、相当な規模で開発したことにならないか。                                               髭じいさん

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