内と外
玄関で靴や草履を脱ぐときには、意識するかどうかは別にして、ホッとしたりする。ここのところ連日雪が降って、自転車で移動するのは一苦労である。雪が凍ってがたがたになり、頑張ってこいでも前へ進まない。山の中なので、平坦そうに見えても何気に傾斜があって、家に近づくにつれハアハア息が荒くなる。私が帰る頃は午後十時ごろなので自転車をしまい、鍵をかけて、草履を脱ぐという段取りである。
私にとってまず頭に浮かぶ内外は、今回は我が家の玄関ということになる。この意味では、「内」の成り立ちに近いかもしれない。「内」はもと「內」という形で、「入」と「冂」の会意ということになっている。「冂」は大まかな囲いや構えと考えれば、この中へ入ることを表すわけだ。親しみのあるところへ入るなら、ある種安堵の思いが出てきそうである。
「外」もまた「夕」「卜」の会意となっている。どちらも錯綜してもとの意味をさぐるのは難しい。「夕」は一応日の暮れる夕方のことにしておく。「卜」は普通に考えれば占いの意味だが、『説文』には「卜尚平坦」とあっ「卜 尚平坦」とすれば「平坦をたっとぶ」意味になる。なぜこれが「外」の意味になるのか分かりにくい。一日の終りに外に居る家族を思いやるとか、神の事はあずかり知らないから外と認識したのか。
内外というのはなにも建物の内側、外側を表すだけではない。家族や個人情報を共有しておきたい人は内に入っているかもしれない。家族の中でも、互いにすべてを理解しているわけではない。それぞれ別の思いを抱きながら暮らしている。家族だから水臭いと感じる人がいるとしても事実は変わらない。この場合は自分が内、その他が外と考えられそうである。
人は言葉をあやつって生きている。個が確立されるにつれ、一般に自分と他者との間に距離ができるように錯覚することがある。自分を閉じてしまう場合は、これを内に籠ると表現できそうだし、できれば外に向かって自分を開くようにしてもらいたい。
まだ私の母親が生きていたころ、彼女の顔を見に帰省していたものだ。実家へ近づくにつれ、なにか懐かしい気分が出て来たのを思い出す。奇妙なことに帰幡する時にも、岐阜市を過ぎ、美濃市あたりでなにかホッとするのを感じたものだ。空気がひんやりして皮膚が引き締まるというか、こちらの方言が耳に入ってくるのも気分を楽にする要因だったかも知れない。
ここまでくると、内と外の区別がはっきりしなくなる。今自分の置かれている立場や気分によって揺らいでいるように感じてならない。
髭じいさん
内 『説文解字』五篇下094
冂 同五篇下134
入 同五篇下093
外 同七篇上127
夕 同七篇上121
卜 同三篇下276