泣く
若い時は殆んど泣くことはなかった。父親は早く亡くなっており、記憶に残っていない。小学校の四年生ぐらいだったか、近所の人が彼の亡くなったことを知らせてくれたことは何故か脳裏に残っている。その時に泣いたかどうか記憶にない。それから三十年ほど経って母親が亡くなった時にも泣かなかったと思う。
その後、次々に兄姉が亡くなった時にも、親しい友人が亡くなった時でも感情が高じて泣き出すということはなかった。
こうやって振り返ってみると自分が、感性が薄くて冷たい人間だったのかなと考えてしまう。悲しくない訳ではない。身近な人を失うときの喪失感は、他のもので補うことはできない。
この歳になると、数えきれないほどの葬式にかかわってきた。自分の身内が亡くなった時には親族やらとして、近所の葬式や友人の身内が亡くなった時にはお手伝いとして、お通夜から葬式まで付き合うことになる。
当然ながら葬式は楽しくない。手伝うと言っても、大層な肉体労働をするわけでもないのに疲れてしまう。親族が涙をハンカチで拭うのを見るだけでどっと疲れるような気がする。私にはジンクスがあって、冬場の葬式では風邪をひいてしまうのだ。これからすれば、私にも感情の起伏があるにはあるらしい。
泣く原因は悲しみや喜びの他にも、感動したり、悔しかったりする時など色々ある。
『説文』によると「泣」(十一篇上二302)は「無聲出涕者曰泣」とあって、「声を出さないで涕を流すのを泣くという」と定義している。そうだったのか。
「涕」は「なみだ」と名詞で使われることが多いけれども、また「泣」と同じように動詞で使われることがあったらしい。
「涙」は同じく「なみだ」で、「途切れずに流れるなみだ」という意味になっている。『説文』には収録されない。
また「洟(テイ)」は「鼻水」のことで、悲しい時などに流れる「涕」と並んで「洟涕」と呼ばれることもあるし、風邪を引いた時に出る鼻液をも表せる。
つまり私は、これまで人が亡くなった時に泣いたことがないから、「涙」はおろか「涕」を流したことがなく、悲しくて「洟」を垂らしたこともないわけだ。
ところが老いた今となってはすっかり様変わりした。人のちょっとした話を聞いても、シリアスなドラマを見ても、感極まって涕が流れてしまう。涙腺が緩くなって、うかうかすると涙となる有様だ。
もともと感情の起伏が小さかったと考えていたのは、実は強烈な意志で自分を抑えていただけだったのか、それとも人生のゴールに近づくにつれ浮世にセンチメンタルになっているだけなのか。情けない話しなのかな。 髭じいさん
