罪深いわたし

 僕の本業は音楽家。昆虫採集は趣味、のはずである。旅に出て、楽器は持っていかなくても捕虫網は必ず荷物に忍びこませてせている。郡上に行くときももちろん。思えば照明寺を初めて訪なったときも動機は「ギフチョウを採りに」であった。蝶を探していて見つけたタラの芽を摘んだのが僕の罪の初めだったのだ。
 虫採りもまた僕の罪のひとつだ。捕まえた虫は殺して標本にしてしまうことが多い。殺すときにココロが痛まないわけはないのだが、珍品を手に入れたときなどはヨロコビのほうがはるかにおおきくってこの罪深い所行を止められないで来てしまっている。
 でも僕がもっと罪深いな、と思うのはそのヨロコビの続かなさ具合だ。どんなに美しい虫に出会っても、二度目、三度目とヨロコビが減っていってしまうのだ。初めて民家の脇の薪にとまっているルリボシカミキリを見つけた時、その美しさにしばし呼吸をするのを忘れた。周りの音が聞こえなくなり、僕とルリボシカミキリだけが永遠のような一瞬、対峙したのである。すこし表現が大げさであった。しかし、このムシが案外普通にいて、あちこちで見かけるうちに最初の感動は無くなってしまった。オオムラサキの時もミドリシジミの時もその感動の目減り具合、というものは同じだった。美しいモノの存在をそれだけでよろこぶことが出来たらどんなに良いだろう。珍しさ加減、とか「もう持っているもん」とかの彼らに関係のない「こちらの都合」があるがままの美しさに水を差す。
 子供と虫採りをしているととても楽しい。クワガタやカブトムシに心奪われているのは、まああたりまえな感じだが、どうと言うこともないハムシやらカメムシにもいちいち興味を持って捕まえては虫かごに入れている。「カメムシ入れると臭くなるからやめなよぉ」などとお父さんとしては思うのだが、今のこの子は全てが初めて出会うモノ達で全てにグッと来てるわけで、ここは好きにさせておこうとも思うのだ。そして改めてながめてみるハムシなぞが以外にイケていたりするのがまた楽しいじゃないか。今までは網に入っても「ちぇっ、ハムシかよ」とか言いながらはたき落としていたムシもちゃんと進化の挙げ句に存在する立派なムシのひとつには違いないのだった。シンプルなコドモの目が見る美しさと、達観したじいさんがしみじみ感じる自然の美、この両方を味わうことが出来れば、ムシともう少しましなおつき合いが出来るようになる気がするんだけどな。

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